―― シーレ、ウェーベルン、ブラームス ――
強迫的なチェロのピッツィカートのオスティナートの上にヴァイオリンの鋭いアウフタクトが切り刻まれる。ピッツイカートは高く低くめまぐるしく逃げ場所を失ってもなお背面を振り向かないというようにその息苦しさをすら自覚できぬままに、たわむれる。ほんの数秒の弛緩、世界の構成が入れ替わり空気の密度が余りに圧縮されてしまったがための空無の瞬間を経て(その弛緩はすぐさま忘れ去られている)、真っすぐな直線の空気への切り刻みは足取りをはやめる。<悲しみの疾走>などと誰が言っておられよう。恐らく疾走が終わる瞬間に悲しみはなお始まってはいないだろう。ここで私は針を上げたくなる。それでなくては40秒ほどのこの時間はまたたくまに消え去ってしまうであろう。
 
坪井 秀人
 


『エゴン・シーレ』の監督ヘルベルト・フェーゼリーもここで針を上げる。ウェーベルンの「弦楽四重奏のための5つの楽章」作品5は、エゴン・シーレの息づく20世紀初頭の空間で、その第3楽章だけを―瞬のうちに波うたせ消し去る。フェーゼリーのシーレの映画に対しては坂崎乙郎のように批判的見解も出たが、シーレをクリムトの側からいつも見てきた私は、非常に感銘を受けて見た。坂崎が指摘していたように、「いつもエロスを感じていたい」というこの映画の宣伝文句(コピー)には、確かに当世流の骨抜き骨無しのセックス礼賛の趣があって閉口させられるのだが、一方で、エロスはエロスだ何が悪い、エロスが反体制の自己証明である痛切さには欠けるとしてもその反逆性の謳歌はうたわれている、と反論したくもなった。しかし、それも時を経た現在では、映画の衝迫力同様、私の中で記憶が薄れ風化した議論になっている。ただ、現代の性(エロス)を生きる私がシーレの時代にあったそれの革命性とそして不毛性ともいうものに憧れを抱いてしまったことは確かなことで、ウィーンを訪ねた時真先に行ったのもシーレのデッサンを蔵するアルベルティーナであり、またベルヴェデーレ宮殿中のシーレの実物に出会った時の感激も忘れがたい。そんな訳でこの映画には感謝しなければならない面があるわけだが、そこから得られたのはシーレの発見ということばかりではなかった。この作品には全篇にわたりブライアン・イーノの環境音楽が流れる。イーノそれ自体は悪くないとしても、どうもシーレが持つ表現性(エクスプレッション)―外に挑みかかる力とはそぐわない感は否めなかった。シーレの自画像が見せている、湿りを含んだ対話を拒んだ眼差し、それは悟りを開いた禅僧の如きイーノの回帰性とは別物である。ところが、どのような場面であったか殆ど記憶がないのだが、ウェーベルンの「5つの楽章」の3楽章が流れ出した、と言うよりは切りこんできた時は、このフェーゼリーという監督の手腕に驚嘆した。それ以来、シーレの画集を見るたび、この曲の言うに言われぬ緊張が私を金縛りにしてしまうのである。

  「動く大気の中の、秋の樹」(1912)というシーレの作品がある。画題にあるように、ここでは大気が動いているのであろう、葉を落とした樹は細く長く大きくしなっている。だが、灰色に茶色に黒に淀んだ樹の背景はどう見ても「動く」とは思えないのである。大気の中に自己の位置を定めながら融けるようで融け得ぬ、裸木の乾からびた肉体は、逆倒した眼で見れば、大気に罅(ひび)を入らせている、つまり大気を分割しているようにも見える。ウェーベルンの音の粒の前進あるのみの自律運動も、緊張と錯乱を孕みながらも、音が飛び交う大気をすぐさま凍てつかせてしまう。

私はこの絵は最もウェーベルン的な絵であると思うに至った。シーレの本領は何といっても肖像画にあったが、私は殊の外この種の風景画を好む。既に指摘がある通り、シーレの描く植物等は擬人化されている。しかし私にはこれも、植物が、むしろ余りに不毛で乾からぴた人間の肉体=生を受けとめている、つまり、不毛な植物に人間が暗示されるのでなく、不毛な人間を植物が暗示する、と受け取りたい。この相違は重要なのである。シーレには「向日葵」(1909―10)の絵がある。恐らくこれは秋のひまわりであり、無惨に立ち尽しているように私には見える。ここにはシーレが傾倒したゴッホの向日葵にあるような、一種危険なほどの輝きはない。秋は豊饒の季節であると共に衰滅の季節でもある。シーレは明らかに後者の秋を生きていたと言える。


ところで、ウェーベルンは「不断に更新される変奏」(C・ロスタン)の形式に早くから執着した。グスタフ・マーラーのパラノイア的冗舌はそれによって否定的に継承されるのだが、作品1となったデビュー作が「パッサカリア」であったウェーベルンは同時に、最後の交響曲の最後の楽章にパッサカリアを択んだブラームスにも繋がるのである。「秋のソナタ」とはベルイマンの映画の題だが、その名から私は映画の筋とは関係なくブラームスのヴァイオリンか何かの曲を思い浮かべる。ブラームスは最後の豊饒を形式ともども西洋音楽史にもたらした1人であった。しかし、第四交響曲のパッサカリアについて、これは無情に結末まで停滞することなく突き進まねばならぬ、と語ったサヴァリッシュの言葉にあるように、シーレやウェーベルンの秋の地点に向かってブラームスも生命の淵というべき場所を走り去るのである。朽ちゆく秋の向日葵の面影を映し出して………。
(1986年2月)