三大テノールやベルリン・フィルに貧乏人の僕は無関係だったけれど、昨年はこの名古屋でもささやかながら素晴らしい演奏会に幾つか出会うことが出来た。一番記憶に新しいところで、年末に聴いた鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパンによる『メサイア』。合唱もオケもソリストも(何といっても米良美一のカウンターテノール!)全てが水準が高く、その少し前に聴いたガーディナーとモンテヴェルディ合唱団をさえ凌いでいたと思われた。胸の内がわのほかほかと温まる演奏会だった(但し古楽器のピッチに配慮してか会場が寒く、風邪をひいてしまった……今も発熱に耐えながらこの原稿を書いているという始末だ)。

 
坪井 秀人
 


だが、これとは違った意味で感動を得られたのが、クリストフ・プレガルディエンとアンドレアス・シュタイアーのコンビによる『冬の旅』。バッハで福音史家をも務めると聞くテノール、プレガルディエンの禁欲的な、しかし感情の襞にじわっと泌みこむ声、そして魔法のように自在に音色を変化させるシュタイアーのフォルテ-ピアノ……。これはたぶん一生涯忘れることの出来ない『冬の旅』になると思うが、彼らの演奏によってあらためて実感させられたのは『冬の旅』の文字どおり底なしの奥深さである。第1曲「おやすみ」を始点に魂の漂泊に同伴してきた僕は21曲目の「宿」Das Wirtshaus で深い慰めと浄化の世界に行き着く。胸がどうしようもなくいっぱいになり涙が溢れてしまう。ふつうなら音楽はここで終わり、その「宿」に旅の荷物をおろして然るべき、そんな深い、充実した1曲なのである。ところが『冬の旅』はそこではまだ終わらない。その先があるのだ。その先とはほとんど〈他界〉の意義にも等しい。「幻の太陽」そして「辻音楽師」。僕は未知なる〈深所〉に拉致されたまま言葉を失う……。

〈こえてゆく〉旅。だが、そこには慰安の拒否があり、安息はない。ロマン主義的な〈超越〉では、だから、ない。それは二度と繰り返すことのできない恐るべき旅なのだ。つくづく思うのだが、今年生誕200年を迎えるシューベルト、彼の音楽の泉を僕たちはまだまだじゅうぶんには味わい尽くしてはいないのではないだろうか――。


ショスタコーヴィチ。彼の音楽もまた、決して再生することはできない。一九七五年に亡くなった、つまり没後20年を少しこえたばかりのショスタコーヴィチをシューベルトと並べてみるなどということは、無謀と言うべきであろうか。確かにこの二人はともに音楽も生涯も孤独だが、その時代の違いに応じて孤独の質は大きく異なる。けれども『冬の旅』の、あの底なしの深淵、イロ二ーと郷愁との綯い交ぜになった世界を、ショスタコーヴィチのシンフォニーやクワルテットは共有しているように思われてならない。ショスタコーヴィチはチェーホフとドストエフスキーと同じ国に生まれた作曲家である。とりわけチェーホフを(それに、ロシア生まれではないが、シェイクスピアも)深く愛していた。ヴォルコフ編の『ショスタコーヴィチの証言』(原書1979)にそのことが出てくる。

  わたしがチェーホフを貪るように読むのは、はじまりと終りについてのきわめて重要なことがらをいますぐ発見できるのを知っているからである。(水野忠夫訳 中公文庫版)  


《はじまりと終りについてのきわめて重要なことがら》――ショスタコーヴィチがここで関心を示しているのはもちろん、《終り》の方、つまり死についてである。

  チェーホフは死を恐れず、「わたしが生前ひとりぼっちで生きてきたように、墓のなかでもひとりで横たわっていることだろう」とくり返していた。  

『ショスタコーヴィチの証言』は作曲家の真作であるか否かも含めて議論を呼んだ扱いの難しい書物だが、僕にとっては少なくとも何度読み返しても発見の多い面白い読み物だ。この書物のあちこちにある煌めくような言葉の数々。その中でもとりわけこちらの心に引っかかってくるのが、このような死をめぐる思索なのである。シューべルトが『冬の旅』や晩年のピアノ・ソナタ、クワルテットやクインテット等で踏み込んでいったのも、まさにこの再生することのあたわない死の世界ではなかったか。『証言』の出現によってショスタコーヴィチの音楽に対する理解が根本的に変わったとよく言われる。僕自身も最初これを確か雑誌に発表されたものを読んで非常に困惑した記憶がある。だが、僕たちはひょっとしたらとんでもない読み(聴き)間違いをしていたのではないだろうか。

例えば文化大革命の破綻の以前と以後、ペレストロイカ、グラスノスチの以前と以後、そして冷戦崩壊の以前と以後、これらの以前と以後との間に〈変節〉したのは誰か?パルタイ?それともマスコミ?そうではなくそれは何よりも僕であった …… そんな自己認識を突きつけ続けたのが僕にとってのこの20年であったと思う。スターリン以後の血塗られた粛清の歴史の下にあって、仲間たちの、自らの悲劇と死とをショスタコーヴィチはひそかに書き続けた。それは性愛や欲望の自由と同じように、彼に幾つかの勲章と「人民芸術家」ほかの称号を与えた社会主義レアリズムが決して許すことのない主題であり、じじつショスタコーヴィチはこの〈レアリズム〉に関わって何度も困難な危機と闘わねばならなかった。あらゆる芸術は本来的に政治的である。その政治性を覆い隠したり、眼を背けるところに芸術の堕落と頽廃も潜んでいる――そう僕は確信しているが、ショスタコーヴィチの音楽ほど、この政治と芸術との息苦しい緊張関係を体現したものは稀ではないか。

このことについては個人的にも思い起こすことが二つある。一つは大学オーケストラ1年目の年に、大学祭でショスタコーヴィチの『森の歌』の企画が合唱団から持ちかけられた時のこと。僕の所属していたオケはこの曲が〈政治的〉であるとの理由で(実際この曲はスターリンに媚びて作られたものだ。ひと頃に比べ今は滅多に演奏されない)、幹部が参加を断った。〈政治的〉の意味がその時(ショスタコーヴィチ没後数年で『証言』がまだ出る前だったと思う)と20年経った現在とではまるで違っていることに我ながら驚かされる。その時、オーケストラというところはどうしようもなく〈保守的〉なところだなと思ったものだが……。

もう一つはウィーンのフォルクスオパーで彼のオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を初めて観た時のこと。セックスとむき出しの欲望、そして妥協のない体制への諷刺。こうした〈告発する〉オペラとして20世紀はベルクの『ヴォツェック』やヤナーチェクの『カーチャ・カバノヴァー』なども生み出したが、ショスタコーヴィチのきわめてストレートな表現とモダニズムの響きは、かつてない興奮と衝撃を僕に与えた。終演後、一緒に聴いた音楽留学生たちと劇場わきのカフェで終電の時間まで議論したのだが(その終電がまた途中で故障してしまいレールの上を歩かされるという始末)、彼女たちの意見はなんと〈全否定〉であった。この音楽は余りに陰惨である、慰めがない、暗すぎる――つまり、美しくない……。

僕はあの夜、レールのようにどこまでも平行線をなぞるしかない苛立ちでいっぱいだった。

  あるとき、わたしの音楽の最大の解釈者を自負していたムラヴィンスキイがわたしの音楽をまるで理解していないのを知って愕然とした。交響曲第五番と第七番でわたしが歓喜の終楽章を書きたいと望んでいたなどと、およそわたしの思ってもみなかったことを言っているのだ。この男には、わたしが歓喜の終楽章など夢にも考えたことがないのかもわからないのだ。いったいあそこにどんな歓喜があるというのか。第五交響曲で扱われている主題は誰にも明白である、わたしは思う。あれは《ボリス・ゴドゥノフ》の場面と同様、強制された歓喜なのだ。それは、鞭打たれ、「さあ、喜べ、喜べ、それがおまえたちの仕事だ」と命令されるのと同じだ。そして、鞭打たれた者は立ちあがり、ふらつく足で行進をはじめ、「さあ、喜ぶぞ、喜ぶぞ、それがおれたちの仕事だ」という。  

『証言』が出たときやはりひっかかった箇所だ。ムラヴィンスキイという指揮者は勲章をじゃらじゃら身につけて独裁者のように振る舞うあの面貌が好きになれなかったが、ショスタコーヴィチの解釈も含めて立派な音楽を作り出していたことはこの言葉で否定されるべきものではない。それに何より最もポピュラーな輝かしい(と思われた)第五交響曲の終楽章のモチーフが《強制された歓喜》であるとする作者の断定に納得がいかなかった。勲章や称号をまとったショスタコーヴィチの姿を思い浮かべていた。当時この曲は「革命」と呼ばれていたものだ。

しかし確かに彼の表情はいつも深い皺を刻んで苦渋に満ちていた。僕は多分、中年以後のショスタコーヴィチの写真で笑った顔を一つも見た覚えがない。いまそして第五交響曲を聴いて、いったいどれだけの人が〈歓喜〉を、あるいは〈革命の足どり〉を聞き取るだろう?この曲は彼の大多数の音楽と同じように、悲しい音楽である。例えば第一楽章のコーダ。ヴァイオリン・ソロのあとに続くチェレスタの半音階上行のはかない響き。これは前作の問題作第四交響曲の、それこそ陰惨な終結に出てくるチェレスタの音を反芻するものだ。そして彼の最後の交響曲となった十五番の、あの白夜のように深い鎮魂の響き、結末の打楽器と鐘のトラジコミカルなさやぎによって回想を受ける響きではないだろうか。次の著名なフレーズがこの交響曲からも持続低音(オルゲルプンクト)として聞こえてくる。
  わたしの交響曲の大多数は墓碑である。わが国では、あまりにも多くの人々がいずことも知れぬ場所で死に、誰ひとり、その縁者ですら、彼らがどこに埋められたかを知らない。わたしの多くの友人の場合もそうである。メイエルホリドやトゥハチェフスキイの墓碑をどこに建てればよいのか。彼らの墓碑を建てられるのは音楽だけである。犠牲者の一人一人のために作品を書きたいと思うのだが、それは不可能なので、それゆえ、わたしは自分の音楽を彼ら全員に捧げるのである。  


《彼らの墓碑を建てられるのは音楽だけである》――このような作者のモチーフがもしも真実だとしたら、その音楽とは決して繰り返すことの出来ない、再生を許さない終末の音楽だということになろう。彼の15曲のクワルテットを聴けばわかるように、常にショスタコーヴィチの音楽は終末に向けて終わり続けている……。例えば、〈懐かしいショスタコーヴィチの演奏〉などというものが成立するだろうか。まだ掘り起こされぬまま埋められた屍体があるうちは、少なくとも……。もちろん作品の解釈は作者によって規定されるという古典的な図式をここで強制することは出来ない。だが、それなら、僕たちは自分たちの胸に手をあてて問うてみるべきだろう。〈自由な解釈とは何か?〉あるいはまた〈自由とは何か?〉と。


リヒャルト・シュトラウス。この人の音楽はその人生とも相俟ってまるでショスタコーヴィチを裏返したものであるかのようだ。『証言』の中でショスタコーヴィチはシュトラウスの『死と変容』を屍体の死の現実の上に慰めを与えた(つまり幻想化・ロマン化した)例として批判的に引用している。だからといってシュトラウスを誰が責めることが出来ようか。彼のナチスとの関係は、枠組みじたいはショスタコーヴィチとスターリ二ズムとの関係と同じだが、その無節操な政治音痴ぶりはほとんど憐れみにさえ値するほどである(勿論、ただ迎合したばかりではなかったけれども)。ナチス党員のためにワーグナーを指揮する彼の写真の姿は、フルトヴェングラーのそれに似て全く異なるものである。
そういう状況下でウィーン・フィルを指揮して録音された彼の『家庭交響曲』の自作自演がある(ドイツグラモフォン盤)。この曲の創作動機じたいもまったく鼻持ちならないお目出たいものなのだが、ここでの音楽も演奏も、じつに素晴らしい。ウィーンのカフェのバニラとかシュラークオーバース(生クリーム)とかの甘い香りが時と場所をこえて匂ってくるかのようだ。

 
   

ところでショスタコーヴィチはナチスの収容所の所長がシューベルトの音楽に涙したといった類の話を、《ジャーナリストが作りあげた嘘である》と断じて、《わたし個人としては、本当に芸術を理解できるような死刑執行人には、これまで一人としてお目にかかったことがない》と述べている。近年注目を集めている所謂〈頽廃音楽〉についてはこの言はその通りだろうが、それを外せば誰もにわかにはこれを受け入れがたい。だが、シュトラウスの人生における俗物ぶりとその音楽の美しさとの裏腹な関係にこの言葉を当てはめるのも、ちょっとシュトラウスには可哀想すぎるかもしれない。ここではシュトラウスの音楽の幸福とショスタコーヴィチの音楽の悲劇の違い、とでも言っておくしかない。そしてシュトラウスの描く死には『死と変容』や『変容』にも、もちろん『四つの最後の歌』にも、いつも再生(浄化)が用意されている。『ばらの騎士』にも、最後のオペラ『カプリッチョ』にも人生の黄昏や死の影が描かれていないわけではないのだが、それはまさに夕映えに照らされて神々しいまでに美しい。悲劇を知らぬ幸福な、あまりにも幸福な音楽が、ここにある。幸福な歌にはもちろん、そのはかなさが伴奏をつけているけれども……。

『四つの最後の歌』はシュトラウスの名実ともに最後の作品である。四曲のうち最も遅くに書かれた「九月」は1948年の9月20日の作曲(作曲家の死の前年)。このときショスタコーヴィチは交響曲ではすでに第九番を世に送り出していた。第五番は1937年の作曲だから、『四つの最後の歌』はショスタコーヴィチの第五番の10年以上も後に作曲されたということになる。因みにメシアンは当時すでに『トゥランガリア交響曲』を完成していたし、シュトックハウゼンの作品発表も始まろうとしていた時分である。ショスタコーヴィチの交響曲も十分に保守的なのだが、〈現代音楽〉の中にあってのシュトラウスのこの孤絶とも呼べるレトロスペクティヴな姿勢はやはり特筆すべきものである。歌もオーケストレーションも無駄がなく、オペラや交響詩で度々お目にかかるすさまじいまでのマニエリスムぶりはここにはない。にもかかわらず、シュトラウスのファンなら《ああこれこれ》と思わず領いてしまうようなオペラっぽいフレーズがふんだんに散りばめられている。まさに達人の手になる究極の逸品と呼ぶに相応しい。

「春」「九月」「眠りに就くとき」そして「タ映えに」。フラグスタートとフルトヴェングラーによる初演では曲順が異なり、三曲目が冒頭に置かれていたようで、実際この曲順による録音も幾つかあるが、やはり現行のものが、春から秋へ、眠りヘ、たそがれへという円環を形づくっていて好ましい。「夕映えに」における ist dies etwa der Tod?(もしかしてこれは死なのだろうか?――尚アイヒェンドルフの原詩ではdiesではなくdas)というソプラノの歌い納めの言葉の意味ぶかさ。音楽か詩(言葉)か――「カプリッチョ』でも追求されたこの命題を、『四つの最後の歌』はこの言葉をその最も深い場所に置いて解決する。言葉と音とのここでの戯れはほとんどエロティックなほどである。そう、エロティックな死、つまり再生の保証された死。シュトラウスはしかもこの死(Tod)によってヨーロッパ音楽の長い伝統にも美しく夕映えを照らさせた――僕にはそう思えてならない。


その時、車で仕事に向かいながら僕はFMで音楽を聴いていた。そこで僕はルチア・ポップが亡くなったことを初めて知らされた。アナウンスの後、ポップの歌う『四つの最後の歌』。僕は感無量になって、車を駐車場に入れてからも最後までこれを聴かずにはいられなかった。数カ月前に実はポップを聴いていた。チューリッヒで『コシ・ファン・トゥッテ』(アルノンクール指揮)のフィオルディリージ、そしてウィーンでは『四つの最後の歌』を! 声の衰えは否めなかったが実に立派な歌だった(後者はシュターツオパーでバレエの音楽として演奏された。ポップは舞台の上で踊り手たちの前で歌った。メインは『ヨゼフの伝説』だったか)。僕は今でもあれはポップの最後の『四つの最後の歌』ではなかったかとひそかに思っている。

ついでに紹介しておこう。『愛しすぎて』(へんな邦題だ)というイギリス映画(Tom and Viv.)をご覧になっただろうか。詩人のT・S・エリオットと精神を病んだその妻を素材にした、つまり〈屋根裏の狂女〉の運命に光をあてた極めてフェミ二ズム的な視点の強い、実にクリティカルな作品であった。この中で「眠りに就くとき」のあの長いソプラノのソロが聞こえてくる箇所がある。へッセはこの詩を書いたとき、妻の精神障害に悩み、自らも心を病んだという。この映画の製作者の見識の高さをうかがわせた部分であった。

こうした個人的な思い入れがいっぱい詰まっていることもあるが、様々な録音を聴いてもこの曲は飽きることがない。その中で一つ未聴の方にお薦めしたいのが、リーザ・デラ・カーザとベーム指揮ウィーン・フィルによる少し古い録音(デッカ。初演時の曲順)。絹の肌触りのようなデラ・カーザの声も素晴らしいが、オケの音色が、これは他をもってはかえがたい美しさである(ヴァイオリン・ソ口はボスコフスキー?)。今ではもうこんな音はそれこそ再生できない。にもかかわらずウィーンあたりでは今でもお爺ちゃんお婆ちゃんたちが、ああした音たちをお茶菓子がわりにしてお喋りしているんだろうな、きっと……。

 
 

最後に今夕、この歌を歌う岡眞里子からうかがった話で興味深かった話をひとつ。彼女はウィーンのベーゼンドルファーザールで開いたリサイタルでこの『四つの最後の歌』(ピアノ伴奏版)を歌った。このホールは僕も行ったことがあり、日本では知られていないけれど、それなりに由緒のあるホールである。最後の曲も終わりに近づき、ピアノが最後の鳥のさえずりのトリルを弾いているまさにその時だったという。ホールの外からそれに唱和するように鳥の声が聞こえてきた……。

一見すると出来すぎた話のように聞こえるのだが、こういうことが奇跡でも何でもなく起こってしまうのがヨーロッパの街のうるわしさではないだろうか。ムジークフェラインのホールだって天井近くの窓がオープンになる。日本では考えられないことだけれど、音楽が街の中に自然の空気にふれ合って生きている。そういうところで自然と音とが感応したとしてもけっして不思議ではないのだ。「夕映えに」でさえずる鳥はナイチンゲールではなく雲雀の声のなごりなのだが、帰国間近のある日の深夜、僕もウィーンの家の近所で鳥がさえずるのを聞いて、足がぴたっと止まってしまった。愛らしい、ちょっぴりはかない声。あれはナイチンゲールだったろうか……忘れられない声だ。

(1997年2月 )