昨年の8月31日、僕は学会で行っていたブダペストからウィーンに戻ることになっていて、その日は早朝から目が醒めてしまい、5時頃だったか、部屋のテレビをつけると、BBCがブレイキング・ニュースとしてダイアナの乗った車がパリで事故にあってクラッシュし、彼女が死亡したことを報じていた。ウィーンに戻って数日後には今度はダイアナの葬儀の中継だ。これは彼女の死そのものよりもずっとやりきれない感情を喚起する見せ物で、それが延々一日中繰り返されるのである。王室の、いや王権の、とあえて言おうか、文字どおり個人を圧殺する王権の残酷な力を目の当たりにさせる儀礼であった。

 
坪井 秀人
 

世界中でCDを売りまくったエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」の心に沁みる歌声も結局はこの王権の力に手を貸しただけで終わった。この日はそこにマザー・テレサとゲオルク・ショルティの死去を知らせるニュースが重なった。数日後に僕は車を借りて妻と友人とともにマーラーの最後の作曲小屋があるトープラッハまで出かけるつもりでいたのだが、こうした相次ぐ死のニュースは幾分運命論者っぽくなってきていた僕の精神状態にけっこう響いた。みっともない話だが、地図で見てもウィーンからははるかに遠いイタリア領南チロルのトープラッハまで、生まれて初めて握る左ハンドルの車を借りてアウトバーンを飛ばし、作曲家が死と向き合いながら曲を書き進めた空間に出かけることを前にして、その土地を訪れることが長年の夢であっただけに、何やら胸の奥にさざなみ立つことを禁じ得なかったのである。僕はそうした思いを誰にも告げないで秘匿しておいたのだが。


車はオペルのアストラで僕なんかには申し分なく、左ハンドルにもすぐ慣れた。最初、対向車とすれ違う時にやたら恐かったことを除けば、どうということもなく、アウトバーンも快適そのもの。天気にも恵まれてケルンテンの州都クラーゲンフルトからヴェルター湖を抜けていくあたりは最高のドライブ・ルート。前日にアルノンクールの指揮するウィーン・フィルで聞いたばかりのブラームスの第二交響曲の第三楽章のオーボエの旋律なんかもふと口について出る。この曲が作曲された避暑地ペルチャッハが視界に入ってきたのだ。フィラッハから入りシュピッタールを越した後の山道は古い街道を中世的な集落を縫うように走っていく。チロルの山並みが囲む高地の細い道を行くのだが、この道の美しさはちょっと例えようもない。

その日はトープラッハまで直行するのは諦めて日暮れ方に東チロルの中心地リエンツ(Lienz)で宿を探し、山腹にぽつんと建ったHaidenhofというガストホーフに狭いけれど小綺麗な部屋を見つけて泊まることにする。このガストホーフがまた大変な掘り出し物で、素晴らしいテラスがあり、そこからは食事をしながら峻厳な山並みを180度遮るものなく味わうことが出来る。ここはすでにドロミテ渓谷の域に入っているらしく、宿の案内にもLienzer Dolomitenと出ている。トープラッハのあるドロミテの風景はもうすぐそこ。ここからもう車で1時間というところに来ているのだ。

 
     

翌日いよいよリエンツからトープラッハへ。途中国境をこえてイタリアへ入る。「グリュース・ゴット!」から「ボン・ジョルノ!」へと国境監察官の挨拶が変わるだけで地続きの同じ風景がどことなく明るさを増すから不思議だ。ただ、イタリアに入ったものの道路標示はイタリア・ドイツ両国語併記で、町名なども同じ。トープラッハにはあっけないほど早く到着したが、この町の地名もToblachという旧来のドイツ語名の他にDobbiaco(ドッビアーコ)というイタリア語の名前を持ち、現在はもちろんこちらが正式名称である。こうした二カ国語併記は何よりもこの地域の歴史的経緯を物語る。もともとオーストリア=ハンガリー帝国の領土であった南チロルは、第一次世界大戦中の密約外交の結果、イタリアに割譲され現在に至っているが、今もなお地元やオーストリアではこのあたりを旧来のごとくSüdtirol(南チロル)と呼びならわし、住民はドイツ語も話す――いや実際行ってみると貨幣としてオーストリア・シリングを使うことは出来てもカフェなどではイタリア語しか通じなかったりと、次第に事情も変わってきているように見受けられたのだが……。

マーラーは彼自身が所属したハプスブルク体制を崩壊へと追いやった世界大戦が始まる三年前に亡くなっているので、トープラッハが辿ることになるその後の国境線の物語を知る由もなかった。だが、こうした国境線をめぐる物語ほどマーラーという作曲家とその作品のパーソナリティを語る上で似つかわしいものはまたとないだろう。

グスタフ・マーラーはオーストリア=ハンガリー二重帝国の支配下にあったボヘミアに生まれてモラヴィアに育ちウィーンに上ってきたユダヤ人であり、スラヴ的風土の中で言語環境はドイツ語で一貫し、宗教的にはユダヤ/カトリックの互換的な文化環境に育った(彼は後年カトリックに改宗している)。こうした出自を持つ彼はいみじくも多民族国家としてのこの二重帝国の矛盾と多様性を体現した存在であり、ウィーンの音楽院で学んだ後はカッセル、ライプツィヒ、ハンブルク等の他にプラハやブダペストの劇場で指揮者としてのキャリアを積んだ経歴もこのことと無関係ではない(彼の第七交響曲が初演されたのはプラハにおいてであり、チェコからアンチェル、クーベリック、ノイマンといった優れたマーラー指揮者が輩出されているのも偶然ではない)。


さて、トープラッハにたどり着くと、僕たちは目的のマーラーの作曲小屋のある近郊のアルト・シュルーダーバッハ(Alt-Schluderbach)を探しにかかる。それは細いくねった筋の一本道を入ったところにあった。ただ最初に目に入ってきたのは作曲小屋ではなく、マーラーが滞在していた山小屋風の大きな構えの家であった。その家に真新しくかけられたプレートも独伊両語併記。「この家にグスタフ・マーラーが滞在し、『大地の歌』と交響曲第九番、未完成に終わった同第十番が生まれた」と記されている。この家は1908年に妻のアルマとその母が探して借りた農家で、現在はこともあろうに Gustav Mahler Stubeの名でレストランになっている。僕はマーラーの肖像が貼ってあるメニューからそこの名物料理らしきノロ鹿(Reh)の肉料理を食べた。ドイツ語を喋るそこのおかみさんに頼んで、マーラーが使っていた二階の部屋も特別に見せてもらった。ところでなぜノロなどが料理に出てくるかというと、隣接する野獣公園(Wildpark)にどうやら関係があるらしい。マーラーの作曲小屋もこの野獣公園の中に残されている。猪、兎、孔雀、それに馬も放牧されている、日本の田舎にもありそうな小規模でのんびりした公園。その中にほとんど誰にも気づかれずに作曲小屋が建っていた。隣にはきれいな白い羽根のフクロウの檻。その檻の主の風貌はどことなく晩年のマーラーの思索的でペシミスティックな面持ちを想起させる。


小屋そのものは小さな木造で驚くほど質素。かつてオーストリア=ハンガリー帝国宮廷歌劇場総監督という音楽文化の権力の頂点を極めた大作曲家の仕事場の趣はほとんど感じられない。中は六畳ぐらいだろうか、アルマの回想では当時はアップライトのピアノを置いていたというから、一人でも狭いスペースだ。現在は写真等がパネルにされて展示されているが、その翌々日に訪ねたヴェルター湖畔マイアーニッヒの別の作曲小屋(交響曲第四番から第七番まで作曲)と比べると、小屋も一回り小さく、展示の仕方も質素きわまりない。

最初の作曲小屋を建てたアッター湖畔のシュタインバッハにも僕はずいぶん前に訪れたし、今度ヴェルター湖も初めて訪ねたが、それらはいずれも交響曲の第三番や第五番その他のフレーズを喚起させる豊かな自然の触発力に恵まれていた。作品を生み出した風土として納得させるものがあったのである。ではトープラッハはどうか。もちろんトープラッハの作曲小屋の周辺の自然もじゅうぶんに美しい。何よりもドロミテの2,000メートル級の山々に取り囲まれた雄大な風景は圧倒的であり、トープラッハ自体が標高1,200メートルの高地にある。それに垂直的な山塊の連なる独特の風景は言われてみれば確かに東洋風で、行ったことはないが写真で見た中国の桂林の風景にどことなく似ていなくもない。『大地の歌』や第九交響曲の中国風の音階や装飾句が想起されるところだろうし、峻厳な山並みとは対照的に小屋の北側に拡がるなだらかなスロープや野生の動物たちの鳴き声から九番の第二楽章のレントラーのリズムが蘇ってくるということもあり得ないわけではないだろう。

しかし、僕には結局この質素な作曲小屋とドロミテの風景からマーラーの晩年の作曲とを結びつける必然の糸とを手繰り寄せることは出来なかった。むしろ、とりわけ第九交響曲に関して、あらゆる具体的な現実の風景を超えた一つの抽象体としての音宇宙を、このような小さな空間から作り出してしまうマーラーの非凡な想像力と構成力、そして妥協のない自己鍛錬の誠実さにあらためて打ちのめされる思いがしたのである。ただ一つ言えるとすれば、彼はアッター湖やヴェルター湖のウエットな〈水の風景〉に飽き足りないものを感じていたのかもしれない。当時開通したばかりの鉄道があったとはいえ、南チロル高地の奥の深い、そして世間から隔絶した余りにも孤独なこの場所が求められたところに、第九交響曲その他の傑作を生んだトポスの秘密が隠されているように思える。
  彼のスタジオは森に囲まれ、草や苔の生えた空地に立っていた。ある暖かい雨の降った翌朝、白いきのこの一群が生えてきた。それを見て彼は、昼頃、嬉し涙を流しながら踏まないように気をつけて帰って来た。そしてまたスタジオに戻る時も、この生命あるものを一つでも踏みつぶさないように、最大限の注意を払っていた。彼にとってはまるで子供たちの一群のように可愛らしく見えるのだ。  

アルマの回想(アルマ・マーラー『グスタフ・マーラー愛と苦悩の回想』石井宏訳)にはこのような愛らしい情景もほの見えるのだが、最後の三年間の夏を過ごしたトープラッハでのマーラーは万歩計をつけて健康を気にしながら散歩する日々であり、アルマの新しい恋愛に苦しめられるという事態も後に生起する(アルマとグスタフとの夫婦生活についてはドゥオーキンによるフェミニズムの観点からの批判があり、「作曲家アルマ・マーラー=ウェルフェル」の復権も伴って、世紀末の〈宿命の女ファム・ファタル〉にアルマを仕立てるあり方を疑う方向も出ているが、アルマの回想じたいにグスタフとの関係を美化し物語化する傾向があることも留意しなければならない)。

こうした〈内憂〉の中での夏の作曲活動と対を成していたのが、ニューヨークでの演奏活動ということになる。偶然だが、トープラッハを旅した数カ月前、僕もニューヨークを訪ねて24時間態勢で稼働するこの大都市の潜勢力に圧倒されたものだ。同じ年にマーラーと同じようにこれら二つの土地を訪れてみて否応なしに感じされられたのは、当然のことながらニューヨークの摩天楼とトープラッハの自然との間にある決定的な落差である。一年の半分をニューヨークで過ごした後、この南チロルの高地の自然の中に身を浸す――この落差は(少なくともヴァカンスの習慣を持たない僕たち日本人には)尋常ではない。ドロミテの谷やアルプスの山塊の向こうにメトロポリタン歌劇場やカーネギー・ホールの近代建築が透かし見られたのだろうか。あるいは両者(自然と都会、作曲と演奏)の間にはそのような融和は断念されて、乗り越えられない亀裂が刻まれていたのだろうか。いずれにしてもマーラーの晩年の三つの傑作群が時空をこえる強靭な自律性を備えた〈テクスト〉として僕たちの前に手渡されていることを、トープラッハの小さな小さな作曲小屋は思い知らせてくれた。

第九交響曲のような交響曲の歴史の頂点に立つ作品を育んだ土壌をじかに手に取ってみたい、そして土に染み着いた音楽の初源の匂いを嗅ぐことができるのではないだろうか――そんな僕の文学的な期待はあっけなく裏切られたのである。ersterbend(死に絶えて)という言葉が弦のパートの幾箇所かに書き付けられたこの曲のスコアからは自ずと死や彼岸の想念へと誘われるのだが、そうした想念を肉化するような強烈な地霊(ダイアナの事故死以来僕を脅かしていたような)は、とうとう僕の前に降りてくることはなかった――。ただしかし、この世のものとは思えないほど美しいドロミテの自然の晴朗な風景を、もし可能ならば深夜、そう、第三交響曲でアルトが歌うニイチェのテクストのように、あるいは『リュッケルト歌曲集』のあの「真夜中に」Um Mitternachtにおけるように深い自然の闇の中で体験してみたら……。そのような仮想を手土産にしてともかく僕はこの聖地巡礼を終えて引き返すしかなかった。

トープラッハ巡礼を語りながら第九交響曲を迂回して、僕はそれを語る言葉を見つけられずにいる。ウニヴェルザール版スコアを愛読書の如く繰り返し開き、幾度も幾度も耳傾けてきた作品だが、その音楽はなお僕には遠く高く、そして深い。この曲を初演したヴァルターとウィーン・フィルによる1938年の歴史的演奏(奇跡としか言い様のない弦の音!)から近年にいたる夥しい演奏の録音、それから1979年わざわざ東京まで聴きに行ったインバル/日本フィル(あの頃は滅多にマーラー九番は生で聴けなかった。因みにこの時の演奏は当団にとっても記念的演奏であったらしく何と最近CD化された由)に始まる幾つかの実聴体験……そういう体験の反復を経てなお汲み尽くせない泉をこの交響曲は深く宿しているようだ。

いま私の手許に1920年5月にアムステルダムで開かれた「マーラー・フェスト」の記念プログラムがある。マーラー全集を出版したウニヴェルザール社が出しており、裏表紙には同社による五番を除く全交響曲と『大地の歌』『嘆きの歌』各々のパート譜・スコア・ピアノ編曲譜の広告が出ていて壮観である(ピアノ編曲譜はツェムリンスキーによる六番、カゼッラによる七番の編曲が知られているが、ヴァルターが一・二番を編曲しているのが興味深い。九番はヴェスが編曲している)。このプログラムはブダペストの楽譜屋で見つけたのだが(約500円!)、アードラー、カゼッラ、シュペヒトといった名だたるマーラー関係者が寄稿し、後半にはこのフェスティヴァルを詳細に報じた世界各国誌紙の記事が原文(独伊仏英)で引用されており、その記事の執筆者にもエゴン・ヴェレスやカゼッラ、ナディア・ブーランジェ、エイドリアン・ボールトなどの名前があって、実に興味深い資料となっている。

マーラー没後九年。メンゲルベルクとコンセルトヘボウ管弦楽団は九夜にわたってマーラーの全作品を初めて演奏するという快挙を成し遂げた。初日は『嘆きの歌』『さすらう若人の歌』と第一交響曲。最終日が第八番(第一ヴァイオリンをカール・フレッシュ、ヴィオラをアドルフ・ブッシュ、ピアノをレオニード・クロイツァーが弾くという凄いメンバー!)で締め括られた以外は年代順の演奏で、第九番は『大地の歌』に続いて最終回の前、マーラーの命日である5月18日に演奏された。
  この作品を聴くことの敬虔な感動、オーケストラの演奏がもたらした神秘的な輝きを言葉で再現することなど不可能だ。最後の音が消え去った後、満ち足りた安らぎがホールを支配し、それから皆しずかにおのおのそこを離れていったのだ。
 

ウィーンの『ノイエ・フライエ・プレッセ』に掲載されたヴェレスのこの感想は当日の気息をじわりとした感触で伝える。初日もそうだが、四番と五番を一回で演奏してしまうなど、演奏者たちのタフネスは今日から見ても驚異的で、このほかにメンゲルベルクらは公開プローベ(練習)も間に入れて開いているのである。ある日のスケジュールはこうだ。午前9時から1時まで四番と五番のプローベ、午後に室内楽をやり、夜8時から10時に九番の第一楽章と五番フィナーレのプローベが行われた後、コーヒー・ブレイクをはさんでさらにメンゲルベルクは八番の合唱練習をし、その間に副指揮者が五番のアダージェットの弦楽セクションのプローベを行い、夜11時に終了。その翌日の朝にまたアダージェットを六回通し稽古するというすさまじさ!

コンセルトヘボウの団員たちにとってはほとんど苦行に等しい日程であったろうが、彼らが献身的としか言いようのない情熱につき動かされていたことは間違いない。1920年のアムステルダムの演奏家たちがマーラーの音楽に寄せたこの情熱を、あらためて今夜、肝に銘じて舞台に立ちたいと思っている。
(1998年2月)