最近オックスフォード大学出版から出版された『マーラー必携(注1)』は600ページをこえる大冊で、詳細な作品解説を含め、中身がぎっしり詰まっていて読み応えがあるが、その中にKenji Aoyagi氏の文字通り「マーラーと日本」Mahler and Japanという論考が収められている。近衛秀麿に始まり戦前のクラウス・プリングスハイム、ヨーゼフ・ローゼンシュトックそして山田一雄・渡辺暁雄らへと継起していく日本におけるマーラー受容を実に要領よく通観している。  
坪井 秀人
 

近衛がマーラーの第4交響曲の世界初録音を敢行したことはよく知られているが、日本での本格的なマーラー演奏の伝統が築かれたのはプリングスハイム以降で、プリングスハイムが1930年代に東京音楽学校管弦楽団とともに次々とマーラーの日本初演を行った後(因みに2番の初演は1933年)、ローゼンシュトックがそれを引き継いで新交響楽団(現N響)の演奏会でマーラーを取り上げた。とりわけユダヤ人であっために後に山田耕筰が主導する戦時下の大政翼賛的な音楽状況の中で演奏禁止の不遇をかこつことにもなるローゼンシュトックの演奏記録(注2)は、マーラーにとどまらず、今日から見ても実に挑戦的で目を瞠らされる。取り上げられた同時代音楽の中にはシェーンベルクの『浄夜』やベルクの『ヴォツェック』の一部も含まれている。ベルクらの作品は当時、ナチス・ドイツでは演奏禁止の対象であったわけだが、同様に彼が1941年にマーラーの『大地の歌』の初演を行っていることは、ナチス・ドイツの同盟国であった当時の日本の状況を考えれば驚くべきことだろう。ナチスによって葬られたマーラーや新ウィーン楽派の音楽は日本においてひそかに息づいていたわけである。(注3)


このこととは裏腹に戦後の日本でのマーラー演奏はしばらく停滞を極め続けることになる。Aoyagi氏作成の日本における日本のプロ・オーケストラ(定期での演奏)と外来の楽団によるマーラー交響曲の演奏回数の表(1950年代以降は4年単位でデータをとったもの)を眺めるといろいろと興味深いことが見て取れる。

Aoyagi氏も指摘しているが、ヨーロッパでは幾つか催しがあり、マーラー・ルネサンスの出発点となった、作曲家の記念の年である1960、61の両年(生誕100年と没後50年)でさえも、日本では大した盛り上がりが見られなかった。1960年代前半までは年間2回程度でほぼ横這い、外来オケの演奏は皆無に近い。それが70年代になると一挙に上昇カーブに転ずる。80年代以降は外来も含めて様々なチクルスが企画されたことは、なお記憶に新しいところだろう。興味深いことに80年代末期以降になると外来オケによる演奏が飛躍的に増加して、日本のオケのマーラー演奏の回数を一気に抜いて、ほとんど倍近い回数に達している。

曲ごとに比べてみると何といっても第1番が圧倒的に抜きん出ている。次いで5番、4番と続き、2番はそれに次ぐ第4位だが、50回という数値は4番の100回のちょうど半分でしかなく、1番の3分の1にも満たない回数なのだ。レコードなどでは日本でもマーラー交響曲の定番となってきた2番「復活」も、その演奏史においては意外なほど舞台に乗る機会が少なかったことが確認できる(因みに最も演奏回数が少ないのは予想通り7番と8番)。外来のオケが取り上げるようになるのも80年代末期以降の比較的最近のことなのである。確かに合唱とソリスト、オルガンや大がかりなオケの編成などを考えれば、音楽の親しみやすさに反して演奏機会が少ないのも致し方ないのだろう。回数に関わらないところで面白いのは、泰西名曲に早くから仲間入りした1番を別として、4番や『大地の歌』が戦前戦後を通してコンスタントに演奏されてきているということだ。

もちろんこうした嗜好が日本だけのものなのか、欧米でも同様の傾向があるのかは、俄には判断しがたい。だが、かつて僅かな期間のウィーン滞在中の筆者の体験でも、マーラーの交響曲は1番から『大地の歌』まで偏りなく、どこかのオケによって演奏されていた(筆者が聞けなかったのは7番と8番ぐらい)。これと比べるのは酷だが、東京や大阪ではともかく、ここ名古屋で「復活」を聴く機会はこれまでも数えるほどしかなかった。今夜の演奏が価値ある〈プラス1〉となるよう心して舞台にのぼりたいと思う次第である。
(2000年3月)


(注1)D.Mitchell & A.Nicholson, The Mahler Companion (Oxford University Press, 1999)

(注2)ヨーゼフ・ローゼンシュトック『音楽はわが生命 ローゼンストック回想録』(日本放送出版協会 1980)参照。

(注3)付言しておけば『大地の歌』のテクストに用いられた漢詩の独訳詩集『中国の笛』Die Chinesische Flöte の著者ハンス・ベートゲは、同訳詩集の姉妹篇とも言うべき『日本の春』 Japanischer Frühling なる日本の和歌の独訳詩集を刊行している。これはその同時代、1910年代のストラヴィンスキーからショスタコーヴィチに至る音楽上のジャポニスム、すなわち日本の和歌と新しい音楽のミニアチュール形式との交渉の系譜にも無関係ではない。この点については拙稿「和歌とミニアチュール ジャポニスムと山田耕筰」(『現代詩手帖』1998.5)でやや詳しく言及した。