昨年たまたま学会出張中の東京の宿で何の気なしに見たピアニストのスビャトスラフ・リヒテルのドキュメンタリー『エニグマ(謎))』に釘付けになって、肝心の学会に大幅に遅刻してしまったことがある。ともかくリヒテルの演奏の神々しいまでの深さというのか、ほかに代え難いその音楽の魅力もさることながら、インタビューと彼自身の備忘のノートに基づいて語られる容赦のない自己観察や他人に対する厳格な観察眼にすっかり圧倒されたのだった。何と言ってもその白眉はドキュメンタリーを締めくくる次の言葉だ。  
坪井 秀人
 

すべてわずらわしい。音楽じゃなくて人生がだよ。気晴らしなんて何の役にも立た
ない。自分が気に入らない。終わり。


演奏家というものは誰しもが自分が世界でいちばんうまいと思いこんでいるとよく言われるものだが、リヒテルの場合にはそれはどうやらあてはまらないようだ。彼はこの言葉をいささかの衒気も逆説もなく、それこそ吐き捨てるように言うのだ。ありふれた表現には違いないが、誰もが口に出来る言葉ではないのかもしれない。例えば僕のような凡庸な人間が《自分が気に入らない》と嘆いてみてもおよそ傲岸不遜にしか映らない。


リヒテルのこの言葉がどれだけの自負と鍛錬の賜物であるかぐらいは僕だって心得ているつもりだ。ともかく、この言葉を耳にした瞬間、なんだかとてつもなくこの老人が巨大な存在に見えて、大げさに言えばその足下に跪きたいぐらいの衝動に駆られたことを打ち明けねばならない。インタビューに答えるリヒテルは、あの照明を落とした暗い舞台で求道僧のように音楽に没入する演奏家としての神々しい姿とは裏腹に、何ともしょぼくれて気むずかしいそこらへんに幾らでもいそうな、平凡な老人の風情なのだが、その口から発せられる言葉のひとつひとつは、超人的な経験の奥行きをほのめかして、見る者の襟を正さずにはおかない威厳がある。

彼は他人に倍して自分にきびしく、その自省の深さと自己批評の厳格さはドストエフスキー、チェーホフ以来のロシアのシニシズム、イロニズムの修辞的伝統に連なっている。同じ音楽家に例を求めるなら、ショスタコーヴィチにも通じる人間性も近からず遠からずだろう(ただし、リヒテルにはボロディン弦楽四重奏団との素晴らしいピアノ五重奏の録音があるが、それ以外にはショスタコーヴィチの録音はそれほど多くは残していない)。そんなともすると暗色におおわれた晩年の渋面は、白黒フィルムの中の若々しいリヒテルの天衣無縫の姿をあたかも堅牢な額縁のようにくっきりと浮かび上がらせる。例えば彼の自宅で行われたクリスマス・パーティの映像。次々にやってくる来客にキスしながらプレゼントを受け取るリヒテルの何とも上機嫌な表情。そこにバッハの『クリスマス・オラトリオ』の冒頭の音楽がかぶるのだが、リヒテル自身がその音楽でのティンパニの使用の素晴らしさを語っていて、それが彼のはしゃいだ表情と二重写しになって何とも説得的で、僕などもこれを見て無性に『クリスマス・オラトリオ』が聴きたくなったものだ。そんなリヒテルの音楽の両義的な性格がうかがえる点でも貴重な記録になっているわけである。

自分に対する容赦のなさは自ずと他人にも向けられる。彼が批判的な言葉を口にするのはカラヤン、ロストロポーヴィチなどだが、関わり深かったヴァイオリニストのオイストラフについても興味深い批評をしている。《史上最高のヴァイオリニスト》とその天才を絶賛した上で、オイストラフがフランクのソナタを単なるサロン音楽としか見なさなかった点で対立があったと証言するところ。リヒテルの意見は、《奇跡的な大傑作》。ピアニストの視点からあの(ピアノ・パートのとても難しい)ソナタの卓越性を見抜いているリヒテルの見識に思わず膝を打ちたくなったものだ。ドイツの音楽雑誌のインタビュー記事でリヒテルが自分の録音の中でフランクのピアノ五重奏の演奏を特に気に入っていたと語るのを読んだことがある。曲自体がリヒテルの性格に合致していることもあるが、ボロディン弦楽四重奏団との共演したその演奏には確かに一種の凄みあり、一聴の価値がある。

さてしかし、オイストラフがフランクをそれほど評価していなかったという事実もそれはそれとして興味深い。実は筆者はピアノがリヒテルなら、ヴァイオリンはオイストラフと決めているぐらいにオイストラフの演奏が好きだ。彼にはショスタコーヴィチのとてつもなく人間くさい協奏曲の録音(コンドラシンとの)があるが、そうした人間くささとヴァイオリンという楽器が導くヴィルトゥオジティとが彼ほど幸福に結びついた例は稀だと思うからだ。リヒテルの場合はその音楽がピアノという楽器の拘束性とどの程度深く結びついていたか、オイストラフほどははっきりしないように思える。つまり二人の音楽の与える感動の質がかなり違うのではないか。それがフランクの評価の差異として現れているようにも思えるのだ。しかし彼らが互いに希有な存在として認め合っていたことも確かだろう。ドキュメンタリーにはこの二人によるブラームスのソナタの迫真の演奏が収められている。

さて、そのブラームスだ。ドキュメタリー『エニグマ』にもリヒテルがブラームスのソナタや協奏曲第2番を弾く映像が紹介されている。協奏曲の方はマゼールの指揮でのベルリンでの演奏だが、同じ指揮者とパリ管弦楽団との1969年の録音が残っている。一方、オイストラフは1960年にクレンペラー指揮するフランス国立放送管弦楽団(ORTF)と共演したブラームスのヴァイオリン協奏曲の録音がある。どちらも僕にとってはブラームスのこれらの協奏曲の演奏の中でもっとも愛聴する演奏に属する。しかし、何よりまず音楽それ自体が本当に素晴らしい。個人的な好みの話ばかりで恐縮だが、ブラームスの作品全部の中でどれかと言われたらこの2曲を外すことは到底考えられない。そもそも曲の冒頭がこれはもう他の一切の雑念を振り払ってくれるような魅力にあふれている。

ピアノ協奏曲第2番ではホルンが朗々と主題を吹いてピアノがそれに応えて曲が始まるのだが、ホルンのその響きに包まれて、もうすっかり幸せな気分になってしまう。ホルンやクラリネットといった管楽器をブラームスは愛好し、今回の第3交響曲はもちろんのこと、その管弦楽の中で効果的に用いられたほか、これらの楽器を主役とする五重奏や三重奏、ソナタの名作が生まれたことは、ブラームスのファンならよくご承知のことだと思う。ピアノ協奏曲第2番の場合は第三楽章のアンダンテに独奏チェロを美しく活用していることにも耳を奪われるが、四楽章で構成された交響曲のような堂々たる規模のこの協奏曲では何より管弦楽の響きの豊麗さにおいて傑出していると思う。

ヴァイオリン協奏曲では冒頭の序奏はファゴット、ヴィオラ、チェロの淡い中間色の響きの組み合わせで始まって、そこにホルン、コントラバスが加わる8小節の主題の提示のあと、実に90小節に及ぶ長い長い序奏がオーケストラによって奏される。ヴァイオリン独奏が入ってからもしばらくはヴァイオリンがカデンツ風にアルペジオを奏でる上を木管が主題を吹いていて、どちらかといえば主導権はオーケストラの方にあるように聞こえる。

奇しくもこれら二つの協奏曲はいずれもブラームスのイタリア旅行の経験が反映されていると言われる。そのことを意識しなくとも、この2曲にはブラームスの他の多くの作品をおおっている隙間の見えないようなどんよりした曇り空とは違って、抜けるような輝かしい青空や、澄み切った光りと風が感じられる瞬間がとても多い。先ほどの冒頭の音楽などもその最たるものだが、例えばピアノ協奏曲の第2楽章、アレグロ・アパッショナートでの、文字通りイタリア風にカンタービレの効いた優美な主題をもとにクレッシェンドしていく中ほどの部分など、何度聴いてもそのまばゆいばかりの光彩に興奮させられる。僕にとってはブラームスの音楽の全ての中でも最も魅力的な部分かもしれない。そこでも響きの魅力を作りだしているのはオーケストラの音色の効果的な配置なのであり、ピアノと低弦主体の強奏による基本主題と対照されることで、ヴァイオリンなど高域の音色を用いたその主題の歌があざやかに飛翔することができる。

ブラームスの交響曲はオーケストラが必ずしも鳴りやすく書けていないと言われることがあり、今回の第3番も含めて演奏する側に立ってみると、確かにいろいろな意味で難しい音楽なのだが、その音色のパレットはフランス音楽とは根本的に異なったものであるとしても、〈北ドイツ精神〉とか〈論理的晦渋〉とかいった評言でのみ単純化できない感覚的な芳醇さがあることは、これらの協奏曲の例に照らしても疑いのないことではなかろうか。

たまたま先ほど挙げたリヒテルとオイストラフの演奏のバックはいずれも1960年代のフランスのオケ。ベルリン・フィルやウィーン・フィルとはまた趣の違う明度の高い響きを堪能させてくれる。リヒテルのピアノはそれこそ先ほど言及したフランクのような感覚性と精神性とを兼ね備えているのは相変わらずだが、発足後まだ2年の初々しいパリ管が木管や弦楽器の晴れやかな音色を惜しげなく撒き散らすのに触発されてか、ともかく珍しいぐらいに朗らかな演奏を展開している。

オイストラフのブラームスも精神性とか何とかを云々する前に、ともかく感覚的に美しい。筆者は管楽器なので、ヴァイオリンのメカニズムについては専門的には何もわからないが、ロマン派から現代にかけての古今のヴァイオリン協奏曲というジャンルが無類に好きである。それはたぶんピアノ協奏曲と違って、独奏楽器がもともとオーケストラの中の中心的な旋律楽器という当たり前の理由にもとづく響きのブレンドの妙に心奪われるからだ。とりわけストラヴィンスキーやプロコフィエフ、あるいはコルンゴルト、バーバーなど20世紀以降のヴァイオリン協奏曲には管弦楽法の精妙さもあって、無条件に魅了されるのだが、それをもってもブラームスのこの協奏曲一曲の魅力にはちょっと及ばない。先ほどの冒頭主題の淡い音色の配合の他にも、第2楽章でのオーボエに導かれる牧歌的な歌、第3楽章でのヴァイオリンの快活な推進力など、どこを取っても間然するところがない。

ともかくヴァイオリンという楽器のいちばん味わい深い響きや歌心がこれほど横溢した協奏曲は他に見られないのではないだろうか。楽器の音域に見合って音楽全体の重心の位置が高いため、澄明な感覚美が際だっている。そういう特性にどっしりと構えて歌に磨きをかけたオイストラフのヴァイオリンの音色はぴったりなのだ。珍しくクレンペラーが指揮しているが、この時代のフランス国立放送のオーケストラもパリ管とはまた別に色彩感が豊かで素晴らしい。筆者は60年代初頭までのこのオケをいつもフェルナン・デュフレーヌのフルートを目当てに聴いているのだが、そうした個別的な要素を抜きにしても、この協奏曲のすがすがしい空気感が見事なまでに表現されているのである。
ブラームスがこのヴァイオリン協奏曲や第2交響曲を作曲したペルチャッハのあるヴェルター湖の周辺を昔旅したことがあるのだが、陽の光りが燦々と降り注ぐその風土を目の当たりにして、やはり音楽は空気の澄み具合や光りの指し加減と微妙に関係していることが実感されたものだった。そこにブラームスの場合は先ほど用いた評言を繰り返せば、快活さという日本語で言い表せるようなある種の人の良さみたいなものが加味されるわけだ。もちろんそうではない、陰りの深い内向性の音楽も彼の身上とするところであったことは間違いないとしても、いたずらにブラームスの音楽を暗くて沈鬱なイメージでのみ捉えることは不正確のそしりを免れないだろう。ヴァイオリン協奏曲のヴァイオリンと管弦楽のあやなす音色に、いささか唐突な連想だが、僕はいつも『奥の細道』にある次の芭蕉の句を思い起こしたりするものだ。

 あらたうと青葉若葉の日の光

《あらたうと》は《ああ尊い》の意だが、シンプルな母音配列とも関わる仮名の感触がすがすがしい若葉の香りや色合いと見事に符合している。この句は日光で詠まれたもので、《尊い》には東照宮のある日光山に対する畏敬の念がこめられていることになるのだが、そうした宗教的・政治的な思惑はこの句単独からは浮かんではこない。畏敬といってもそれは光の輝きと緑の色合い、そして空気の澄明といったいわば自然崇拝に近いものだ。こうした感触にはブラームスが用いていたドイツ語で言ったら、hell(明るい、澄んだ)というような言葉のニュアンスに似たところがあるのではないだろうか。


もちろんブラームスは芭蕉を知り得ようがなかっただろうけれど(しかしその可能性はゼロではなかったのかもしれない。当時のヨーロッパにおけるジャポニスムは和歌や俳諧の紹介とも連動していたし、ブラームス自身もウィーン駐在の日本公使に日本民謡にもとづくピアノ曲を献呈しているという)、若葉のみずみずしさに対する讃歎ということでは洋の東西をこえて共通だろう。むしろブラームスを〈ドイツ的〉といったステレオタイプな修飾語から解き放って捉え返すことに僕などはより大きな関心を誘われる。フランスのオケをバックにロシア(ソ連)のリヒテルやオイストラフが弾くブラームスが代わりの効かない説得力を持っているのは、ブラームスの音楽自体に内在するユニヴァーサルな力に拠るところが大きいはずである。そうした普遍性にhellというドイツ語の感触が通じていることの意味を考えてみたいのだ。

ブラームスの第3交響曲は1楽章のいちばん最初に提示されるモチーフ(F−As−F、つまりファ―ラ♭―ファ)によって曲の全体が規定されていて、このモチーフにはFrei aber froh(自由にして楽しく)という含意があると言われる。aberは一般に逆説の接続詞なので《自由に、しかし楽しく》と訳されることが多い。しかし、〈自由〉と〈楽しい〉を逆説で繋げるのは少しへん。そんなところからfroh(楽しい)をeinsam(孤独)に入れ換えた方がこの曲の場合も似つかわしいと言われることもあるわけだが、aberは必ずしも厳密に逆説ととる必要もない。ついでに言えば、このaberの頭文字のA(ラ)は実際にはAs(ラ♭)なのだからなお具合が悪い。この曲の調性はヘ長調ということになっているが、このAsの音によってヘ短調との間にゆらぎを生じさせている。こうした繊細なゆらぎが音楽に陰翳を与え、それがeinsam(孤独)という感覚を呼び寄せているとも言えるからだ。しかし、むしろここでもfroh(楽しい)という感覚の側面を忘れずにおきたいのだ。frohというのは〈上機嫌〉、そう、先にヴァイオリン協奏曲の第3楽章を喩えた〈快活〉というニュアンスで単純に〈楽しい〉とは本来置き換えにくい語感がある。このfrohこそ実は、先ほどは警戒したところの最も〈ドイツ的〉なる感性の一つなのかもしれない。

ブラームスの音楽の3番の魅力はその隙のない構成力にまして第3楽章に代表されるようなメランコリックとしか言いようのない旋律の美しさ、たおやかさにある、というのが大方の受け取り方だろう。けれども、そこでもとても素朴でじつはその内容はとても精妙な、贅をこらした響きの豊かさ、まさに朗々とした音の色合いのすがすがしさと出会っているはずだ。それもまた《あらたうと》の句の感触に通じているに違いないし、その意味で、このfrohhellに、国境をもたない青空へと解放されていくのだろう。すべての楽章が弱音で溶けていくように終わるユニークなこの交響曲を、そんな風に聴いてみるというのも一つの味わい方として許されるのではないだろうか。