バルトークはバルトークであって、それ以外の何者でもない。つまり、バルトークは他の誰にも似ていない――。
バロックと近代とを二つの極として考えてもよいかもしれない。19世紀末から20世紀以降の芸術家たちは息苦しいまでに強迫的に自らを駆り立てていった。それは、自分が他の誰でもないユニークな存在であるはずだ、またそうあらねばならないと熱烈に信仰する〈個性の神話〉だ。だが、T・S・エリオットが「伝統と個人の才能(タレント) 」で主張し、またエリオット自身がその創作の中で実践したように、明らかに個人のタレント才能に由来すると思われる最も〈個性〉的な表現にも常に〈伝統〉の積み重なりが内包されていると考えるならば、一人の個人の独創に成る性格などどれほどのものがあろうか。それは19世紀末以降にはなばなしく登場してきた多くの作曲家たちの営為においても例外ではない。
 
坪井 秀人
 


フランスのショーソンがワーグナーの系譜に位置することは影響関係の事実云々をこえて誰の耳にも明らかだろう(彼の美しい歌曲『愛と海の詩』など、まさに『トリスタン』を前提にせずにはあり得ない)。マーラーの交響曲、特に中期以降の作品にはフランス印象主義の音楽に通じる要素が数多くある。新ウィーン楽派のような革命児が出てくる同じ土壌からツェムリンスキーのようなブラームスともマーラーとも似ている作曲家が数多生まれたことも、今となってはよく知られるところだ。新ウィーン楽派にしたところが、ウェーベルンとシェーンベルクの隔たりはもちろん大きいにしても、長い目で眺めたら果たしてどれほどのものであるかということもあろう。
しかるにバルトークはというと、これは彼の前にも後にもほとんど同類を持たない存在なのではないかという印象が僕には強い(同時代には盟友のコダーイがいるし、日本の戦後音楽の作曲家の一部がバルトークを信奉したということでは無論、絶対無比というわけではないが)。ストラヴィンスキーがいかに偉大で(大方はバルトーク以上に)20世紀を代表すると見なされる作曲家であろうとも、彼の『春の祭典』がいかに特別で記念碑的な意味を持った音楽だとしても、その原始主義はプロコフィエフやヴァレーズその他多くの類似品を持っている。その系列にバルトークの『中国の不思議な役人(マンダリン)』を加えることだって可能なのだ。だが、そこでもバルトークの音楽は他と決定的に異なる。バルトークが自身の様式を見つけて以後、彼は西欧音楽の特定の作曲家の誰の真似もしないし、また彼の音楽が誰かによって模倣されることも困難であったように思えるのだ。
このような印象はバルトークが自身の依拠する地域の風土に対して自覚的意識的であったことに由来していると思われる。具体的にはハンガリーに生まれた彼は、一貫してマジャール人としてマジャール語を話す人間として生き、そしてアメリカで死んだのだが、そしてそのことは何の変哲もないことのようにも見えて、実は全くそうではない。べーラ・バルトークではなくバルトーク・べーラとして生きること(ハンガリーでは日本語と同様、人名は姓・氏の順となる)へのこだわりの徹底ぶりもまた、誰にも似ていないかと思われるのだ。ストラヴィンスキー、マルティヌーなど、母国の外に出て、民族的な語法を西欧モダニズムの語法に融合させた作曲家の例は他にもあるが、彼らと違って、バルトーク・べーラはモダニズムと民族主義を融合させたとしても、西欧的なものに対して独特の距離感を持っていたのである。


ハンガリーは紛れもなく〈ヨーロッパ〉であるが、バルトークが生まれ育った時期の祖国はオーストリア・ハンガリー二重帝国という西欧/東欧のはざま、文字通り二重のシステムのもとにあった。加えて当時のハンガリーは、ルーマニア、スロバキア、セルビア、クロアチアその他のスラブ系周辺地域との交流や葛藤をも内包するという複雑な位置にあった。バルトーク自身も現在のルーマニア領の生まれであり、国家内ではマジャール人の他民族に対する覇権とオーストリアへの憎悪と独立運動という、これまた二重のモメントを宿していた。バルトークは、帝国の崩壊と民族自決の理念という第一次世界大戦以後、再編を続ける世界地図の、いわばその変動の中心に生きた作曲家であった。これはソヴィエト・ロシアを含む東ヨーロッパに生を受けた20世紀の芸術家たちが例外なく引き受けざるを得なかった運命であったが、バルトークの場合、モダンであり続ける(新しく独創的であり続ける)ことと民族の伝統を西欧的規範に対峙させることの融和が、他の誰よりも真摯に追求された点で、稀有な存在であったと言ってよい。
バルトークの音楽家としてのキャリアの中で3つの立場が一貫して並立し、相互に交差していたことの意味を右の文脈で考えておくとよい。つまり、バルトークは卓越したピアニストであり(彼はブダペスト音楽院では作曲科ではなくピアノ科の教授として教えたのだった)、民族音楽の研究者で東欧の民謡の採集者であり、そして現代の作曲家であり、彼はこの3つの仕事を生涯にわたってほぼ手放すことなく持続させたのである。〈ほぼ〉と記したのは母国において彼が現代作曲家として受け入れられなかった一時期(初期の代表作、オペラ『青ひげ公の城』などは1911年に作曲されたものの初演は1918年まで待たねばならなかった)に彼は民謡研究に精力を注ぐという関係にあったからで、こうしたバランスの取り方は晩年のアメリカ時代の彼の立場の微妙な(危機的な)ところにも反映しているだろう。(ちなみにピアニストとしてのバルトークの演奏は幾つかの録音で聴くことが出来るほか、彼が採集した民謡も一部は比較的容易に聴くことが出来る。)
新しく、〈現代的〉であること、〈独創的〉であることがバルトークにおいては幾分通常とは異なったかたちであらわれていたのではないだろうか。演奏家という側面もさることながら、何より民族音楽研究の視点が彼の音楽の〈現代〉性や〈独創〉性をエゴセントリックな個性神話や天才神話から解放していると思われるのだ。彼が取り憑かれた数学的なロジックによる作曲法、黄金分割(sectio aurea)やフィボナッチ数列(Fibonacci)なども(十二音音楽のセリーと相似して)、作者の創意や着想が気まぐれに流れることを排除して、いわゆる〈創作の秘密〉に一定の法則性を自ら強制することと等しい。つまり、天才的な閃きや偶然性など、個人的な恣意が創作に介入することをなるべく回避するというシステムが構想されているわけだが、彼が採譜・録音し研究したハンガリーやルーマニアその他の民謡を自身の作品のモチーフに活用することもそれと同じ原理に発していると言える。(なお、彼の数学的作曲原理を手っ取り早く?知りたければエルネ・レンドヴァイ『バルトークの作曲技法』〈谷本一之訳、全音楽譜出版社、1978〉を参照のこと)
しかし、言うまでもないことだが、数学的な構成のルールに則ってすべての音符が並ぶわけではないし、民謡の旋律をそのまま用いて作曲ができるわけでもない。民謡を芸術音楽にリサイクルすることなら、ベートーヴェンもシューベルトも行ってきたことだ。だが、にもかかわらず、バルトークの行おうとしたことはやはり、そうした正統的な〈西欧古典音楽〉の先人たちとはおよそ異なるのだ。では何が異なるのか。答えは、バルトークが執念を燃やした民謡研究の出所が〈西欧〉ではない、という一点に尽きる。そしてこの一点はまさに決定的ではなかろうか。
ドホナーニの助言を受け入れてウィーン音楽院への入学を見送ったという事実も知られているが、とりわけ初期のバルトークがオーストリアのハプスブルク帝国の支配に対して強い反抗心を抱き、強烈な民族意識の持ち主であったことがここでは重要な意味を持つ。多くの東欧の音楽家たちが(それこそドヴォルザークを筆頭として)西欧の、特にドイツ音楽の系譜に自らを位置づけようとしたのに対し、バルトークはむしろそれからの離脱を自覚的に志向したと言える。彼がそうした姿勢を貫くためにハンガリーの民謡の古態を求めてトランシルヴァニアやトルコまで出かけることになったこと、そして彼が経巡ったヨーロッパの周縁とも言えるその地域がハプスブルク帝国のボーダーと重なって見えるのは何とも皮肉なことではあったが、そうした込み入った過程から生まれた彼の音楽はいきおいラディカルであり、かつ晦渋な性格を帯びることになった。


個人的なことになるが、僕が高校生の時代、クラシック音楽を聴き始めた頃に水先案内の役割を果たしてくれたものに神保 一郎『名曲をたずねて』(角川文庫、一九七五)という上下二冊、厚めの文庫版がある。この中で取り上げられている作曲家で今日、いわゆる〈現代音楽〉の作曲家と呼べる人といえばわずかにシュトックハウゼン一人あるのみだが(その前はオルフ、ブリテン)、当時僕はこの本を読みながらバルトークを完全に現代音楽の作曲家として認識していた。まだ『春の祭典』が今日のように学生オケどころかプロのオケのレパートリーとして定着する以前の時代である。何しろこの文庫本の初版が出たのはショスタコーヴィチが亡くなるか亡くならないかという時分であり、ストラヴィンスキーが亡くなってまだ4年しか経っていなかった(ブリテンやオルフは生きていた)。NHK・FMでは「現代の音楽」という番組をやっていて、冒頭のテーマ音楽はウェーベルン編曲の『リチェルカータ』(六声のためのリチェルカーレ)だったことを覚えておられる方も多いだろう。その番組にバルトークが出てきても不思議ではない、そのような連続性があの時代にはまだあったのだ。
実際、『名曲をたずねて』が取り上げている『弦楽器・打楽器とチェレスタのための音楽』『管弦楽のための協奏曲』『弦楽のためのディヴェルティメント』『ピアノ協奏曲第3番』『ヴァイオリン協奏曲(第2番)』『弦楽四重奏曲第1番」『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ』『ミクロコスモス』『バガテル』のうち、多くはなかな聴くチャンスに恵まれなかったし、聴けたとしても高校生の僕にはほとんど歯が立たなかった。『弦楽器・打楽器とチェレスタのための音楽』(弦チェレ)が20世紀を代表する〈名曲〉であるとの世評は高かったが、同書が賞賛するヴァイオリン協奏曲第2番ともども、どれだけ聴いても近寄りがたい音楽であるという印象が強かった。『中国の不思議な役人』や弦楽四重奏の傑作である4番を初めて聴いたときは確かに打ちのめされ興奮させられもしたのだが、その余りの激しさ、鋭利さに腰が引けてしまったのも事実。
『青ひげ公の城』は『ルル』のファム・ファタル的な男性の女性憧憬(憎悪)の主題を裏返したような物語のオペラで、ケルテスやフェレンチク、ドラティなどの録音を聞きこんだものだが(最近のお気に入りはフリッチャイが若き日のフィッシャー=ディースカウとともに演奏した録音。残念ながらドイツ語版による歌唱だが、非常によく歌い抜かれた名演だと思う。昔はオーマンディによる英語版などというものもあった)、これなども何というどす黒く暗い音楽なのだろうと、今にしても思う。『青ひげ』も『役人(マンダリン)』も『ペレアスとメリザンド』や『ルル』と違って、エロスとしてのファム・ファタル(宿命の女)をまなざし描くのではない。そうではなく、そのエロスに取り憑かれる男の欲望そのものを(『青ひげ』の場合はユディットの視点を通してであるが)描くところに一筋縄ではいかぬバルトークの〈個性〉が看取される。彼の音楽が時折見せるある種暴力的な激しさはこうした志向とも深層心理的に無関係ではないかもしれない。そんなわけで、むしろ当時の僕はピアノ協奏曲第3番の〈アダージョ・レリジオーソ〉の祈りの音楽に浸ることが多かった。
かくして僕自身の〈現代音楽〉としてのバルトークとの出会いはそれほど親密なものではなかったわけだが、それは時間を経て自分が歳を重ねてもさほど大きな変化はなかった。『弦チェレ』や『2台のピアノと打楽器のソナタ』、ピアノ協奏曲第2番といった音楽の凄さは前よりも理解できるようになったとはいえ、バルトークの世界が他の20世紀前半の音楽と比べても非常に異質なものであるという印象はむしろ強くなってきた。彼の音楽の暴力的な激しさ、ラディカリズム、あるいはそれと相補う〈夜の音楽〉の静謐で、だがどことなく不安な世界、それらは周りを探してもどこにも見あたらないものだったのだ。
今回、『管弦楽(オーケストラ)のための協奏曲』(オケコン)を演奏することになり、一種のバルトーク漬けのような状況を自分に課してみると、今まで見えていなかったことがいろいろと見えるようになってきたが、結論はほとんど同じものだった。つまり、彼の音楽は他の誰とも似ていない――。だが、そのユニークさはエゴセントリックな〈個性〉の信仰とは全く異なった次元によって生起しているのであって、ひょっとしたらそこに至る彼の苦闘の過程には、グローバリズムのヴィジョンが暗礁に乗りかかっている21世紀初頭の今日においてこそ学び取れる〈現代〉性があるのではないか、などと考えをめぐらすことになったのである。そして特にアメリカ時代のバルトークへの共感がそうした思考と分かちがたく結ばれていき、彼の音楽がいまだ経験したことがない親しみのある表情を帯びるようになってきたのだ。
幸運にもと言うべきか、昨年の10月末、招かれて僕はニューヨークのコロンビア大学をたずねることになった。誰あろう、バルトークがアメリカでの生活の基礎をこの大学に依存していたことを当然、思わないではいられなかった(バルトークはコロンビア大学で言語学者ミルマン・パリーが採集したセルボ・クロアチアその他の民謡の研究を行うことでアメリカ生活の資金を得ていたのだ)。コロンビアの研究者にバルトークのことを話しても、彼が彼らの大学に一時的にポストを得ていたことを知る人は不思議にもいなかった。大学が僕に用意してくれたのは〈マラケシュ・ホテル〉という名前のホテル。いかにもチープなオリエンタリズムをぷんぷんとふりまいた安ホテルで、ブロードウェイの103番街の地下鉄駅からすぐの交通至便な場所にあるものの、部屋は暖房は効かず、シャワーも壊れているというなかなかの代物だった。けれども、アッパー・ウェストサイドのこのあたりのブロードウェイをバルトークも歩き、地下鉄に乗ったのかと思うと、その不自由さもひときわ感慨深いものとなった。冷えた身体を縮こまらせながらマンハッタンを歩いていると、あの無伴奏ヴァイオリン・ソナタの第3楽章〈メロディア〉にある、望郷の念か、何かをあこがれて魂が腕をのばしていくような、旋律線が空高く延びていくような、なつかしい音楽が、高層建築の谷間のどこかから聞こえてくる、そんな錯覚に囚われそうになるのだった。


アメリカ時代のバルトークの貴重なドキュメントであるアガサ・ファセットの『バルトーク晩年の悲劇』(野水瑞穂訳、みすず書房、1973)には次のような一節がある。

友人の一人が尋ねた。「バルトーク教授、ドイツを何度も訪れられた先生が、ドイツ語をご存知ないとはどうしてですか。」
バルトークは一瞬その友人を見つめたが、まじめくさって答えた。「今日使われてるドイツ語と関わりのない、つまり現今の空怖しい行為の仲間であるドイツ語と関わりのないドイツ語であれば、というのはビスマルク時代以前に遡る頃のドイツ語であれば、私は喜んで、誇らしく、その言葉を思い出して再び語ることでしょう。そしてそのようなことでもあれば、」と彼は真情をつけ加えるのであった。「私の作品出版からドイツ語版を除くということなど、決して考えはしないでしょうね。」  
(前掲書、p.193)

ナチス・ドイツを憎んだバルトークは1937年に自身の作品の出版社をウィーンのウニヴェルザールからブージー&ホークスへ移しているのだが、右引用に付された訳注によれば、ブージー&ホークスとの出版契約において彼はあらゆる作品に関して、ドイツ語による標題や注をつけないことを特に加えたとのことである。ハンガリーの民族主義運動の時代にはオーストリアに反抗心を燃やしたバルトークはナチス・ドイツによって亡命を余儀なくされることになったのだが、そうした自身の境涯のみにとどまらない高い次元で、彼はドイツ音楽からの〈独立〉を目指したのだと言っていい。文化や芸術はそれを育んだ地域の言語によって規定されている。彼の作品がマジャール語に深く根ざしているように、ドイツ音楽はドイツ語に根ざしている。彼はドイツ音楽の伝統を良きものとして否定はしない。だが、ここにもハンガリーの音楽家としてのドイツ音楽への強烈な反骨心が見え隠れしているように思われてならないのだ。
そんな彼がヨーロッパの他の地域ではなくアメリカの土地を亡命先に選んだのは不可避的に必然であったが、知られるようにその生活はおよそ安楽なものではなかった。その困窮は経済生活という最も即物的な次元に及ぶものであった。
1943年のバルトークの税込の収入明細は、ピアニスト(妻のディッタと合わせて)としての演奏会収益444ドル、著作権使用料1,157ドル、講義謝礼(ハーヴァード大学)400ドル、作品依頼(クーセヴィツキー財団)1,000ドル、給与先払(コロンビア大学)1,285.68ドル、原稿料10ドルで、計4,296.68ドルというものであった。このうちのクーセヴィツキー財団による1,000ドルが『管弦楽のための協奏曲』の作曲料として支払われたものだったわけである。翌1944年になると著作権使用料2,239.42ドル、作品依頼1,000ドル、原稿料55ドル、給与残金(コロンビア大学)191.08ドルで、計3,485.50ドル。前年より800ドルほどの減収となっている(作品依頼のうち半分の500ドルはメニューインからのもの。つまり無伴奏ヴァイオリン・ソナタの作曲料である)。ちなみに彼が亡くなった1945年には3,611ドルの収入が見込まれていたという。こうしたデータをもとにマルコム・ジリースはバルトークの貧窮を言い立てることは誇張されたものともいえると指摘しつつ、経済の先行きに対する不安が彼に欠乏感をもたらしていたことは充分に理解できることだと述べている(Malcolm Gillies, "Bartók in Amerika", Amanda Bayley (ed.), The Cambridge Companion to Bartók〈Cambridge University Press, 2001〉, pp.199-200)。
2年間の収入の出所を比較しても、彼がクーセヴィツキーやシゲティ、メニューインらによって支援を受ける一方で、その経済の不安定ぶりがうかがわれる。それに加えて健康の悪化など、異国の土地でバルトークが抱いたであろう孤独と不安は察してあまりあるところだ。
バルトークはその民謡採集の仕事においてルーマニアからトルコ、果ては北アフリカまで旅に出た。そうした国境の越え方はいわゆる芸術音楽(今日で言う〈クラシック〉)はもとより民族音楽の枠をも越えた、世界音楽(ワールド・ミュージック)の視点を持ったものであったとすら言える。だが、その越境の姿勢は決してコスモポリタン的に超越するものではなく、マジャール人としての起源に根ざしたものであった。その一方で民謡採集に当たってはエディソンの録音機フォノグラフを携えていたように、近代の技術と交通網が彼のフットワークを支えたという事実にも留意したいし、越境の行為じたいも世界大戦前後の世界再編という同時代の潮流に乗ってこそ成立したことも無視できない。
こうした国境ごえが最終的にニューヨークはマンハッタンのビルの谷間の空間に行き着いたことは、まさに20世紀の芸術家の一つの運命を象徴してもいよう。バルトークはニューヨークの〈現代〉を愛せなかったはずだ。彼の模索した〈現代〉は別のかたちで成就されるべきだったはずだが、彼には時間がもう残されていなかった。1945年9月に彼の生涯のピリオドが打たれたということは、彼の音楽が〈戦後〉とともに作者の手から自立し始めたことを意味している。バルトークが聴き、録音した民謡の声はすでに世紀をこえて遠い彼方にある。しかし、その声は常に私たちの〈現代〉が置き去りにしてきた忘れ物として、心のどこか見えない片隅にまだひっかかっているのではないだろうか。
国境は越えずとも勝手に変わる。個人の意志と関わりないところで。だとすれば、国境をつなぎ、その境界に種子を蒔き、草花を生い茂らせよう。そこに座ってともに歌を聴き、また自らも歌おうではないか――バルトークならきっと今、そう言うに違いない。

「しかしながら、地図上で後退したり前進したりして変る国境線が新しいものであろうと、古いものであろうと、夏には緑に、冬には白い、あの広い土地に花粉や種子を楽々と運びつづけ、何世紀にもわたって歌を送りつづけているあの風に対する防御柵をうちたてることはできなかったのだよ。」     (前掲『バルトーク晩年の悲劇』p.346)

*バルトークの採集した民謡の録音はたとえばムジカーシュというハンガリーのグループが作成したCDの中で彼らの素晴らしい演奏と共に聞くことが出来る。ムジカーシュはバルトークが聞き採譜し自身の作品(『二つのヴァイオリンのためのデュオ』など)に取り入れた民謡を復元し、現代に甦らせている。バルトーク・ファンは必聴である。また、民族音楽研究者としてのバルトークの業績については、何と言っても伊東信宏『バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家』が新書版ながらその情報量に圧倒される。このような中身の濃い研究を日本語で読むことが出来、しかも廉価で入手できることはつくづく幸せなことだ思う。
・Muzsikás / The Bartók Album, Hannibal HNCD1439


・伊東信宏『バルトーク 
民謡を「発見」した辺境の作曲家』(中公新書、1997)