今のロシアにはまだ一度も行ったことがないが、ソビエト社会主義連邦共和国時代のモスクワには一晩だけ滞在したことがある。1991年の冬、短期の出張旅行でウィーンとドイツの各地を廻ったとき、あれはちょうど湾岸戦争下、〈多国籍軍〉の攻撃が空爆から地上戦に展開していくまっただ中だった。ミュンヘンでは反戦デモに遭遇、ベルリンのヴィルヘルム教会はハンガーストライキで占拠されていた。ブランデンブルク門前の露天にはイスラエル国民に支給されたガスマスクが〈壁〉の石と一緒に土産物として売られていた。そんな騒然とした時期に飛び乗ったのは当時悪名高きソ連のアエロフロート機。トランジットで降ろされたモスクワで強制的に空港から比較的近いホテルに連れて行かれて、見ず知らずの人と二人部屋に泊まる羽目になった。ホテルの周囲は銃を構えたソ連兵たちが取り囲む。周辺には何もなさそうで、積もった雪が音を吸収するのか恐ろしいほど静かだ。  
坪井 秀人
 

モスクワのホテルにはシャワーの排水口の蓋がないのでゴルフ・ボールが必需品だとか、冷たいスープとチキンしか食べられないとか、行く前に散々脅かされてはいたものの、機内食も含めて別にご飯が不味いとは思わなかったし、ホテルのシャワーはきちんとお湯が出たし、ゴルフ・ボールも必要なかった。ただ、シェレメチヴォ空港はすぐに停電して真っ暗になったし、朝食券を渡されたカフェでは待てども待てども注文を取りに来なかった。極めつけはホテルでの夕食。食事券を渡されて行ったレストランは照明が半分壊れていてまるで地下室のような薄暗さで、日本人旅行者たち数人と固まって食べていると、レストランの店員がどこからかキャビアの缶詰を持ってきて10ドルで売るから買えとこっそり押し売りに来る。体制末期、ルーブル通貨の価値は地に落ちていて、マールボロの方が交換価値があると言われていた時代だ。体制が崩壊していくと、どこでも闇取引がはびこる。こうした中でドストエフスキーの文学やチャイコフスキーの音楽、そしてマリンスキー劇場の舞台の伝統がしぶとく生き続けてきたことを思うと、その薄暗い食堂の風景が今さらになってあらためて感慨深く蘇ってくるのだ。
朝ホテルを発とうと下に降りていくと、受付はチェックアウトを待つ人でごった返していて、その中の少なからぬ人々は、半端ではない大きさの荷物を抱えた家族たちで、女性はヴェールをかぶっているし、中央アジア出身らしき人々も含まれていただろう、ともかく明らかに家族で新しい土地へ移動しようとしている様々な人たちが座って、まるでチェックアウトではなく、その場所でただ時が過ぎゆくのを待っているかのように寡黙であった。そんな彼ら彼女らの存在を無視するかのように、ドリルでベニヤに穴を開けたりして安普請のホテルの応急工事がけたたましく早朝から始まっているのである。気楽な旅人でしかない僕は身が縮まるように感じながら彼らの後ろに並んでじっと順番を待った……。
たった一晩のモスクワ滞在にまつわるこのような雑然とした印象は、プーチンの強権のもとで急速に経済発展を遂げてきた最近のロシアの現状に照らせば、〈西側〉世界のぬるま湯の中に浸ってきた者の少々思い上がった偏見として受け取られるのかもしれない。ただ、ごく些細な体験ではあるものの、このモスクワで垣間見たものは僕にとって、それまで触れてきたロシアの文学や音楽との距離感を少し縮めてくれたことは間違いない。帝政ロシアからソ連へと、そして現在のロシア連邦へと、100年足らずの間に政体が劇的な転変を続けてきた〈ロシア〉の文化は、かつて王朝期にはフランスなどの西欧と行き来し、ソ連邦では領土内の民族主義を吸収するなど、常に人的資源を流動させることでその富を築いてきたのではなかったか。そしてもちろんその人的資源は管理され弾圧されて時には強制的に移動させられる過酷な運命に翻弄もされたのだ。そのような人の移動は二度の世界大戦以後も朝鮮戦争からユーゴ崩壊、イラク戦争に至るまで絶えることはなかった。
今回取り上げられるチャイコフスキー、ボロディン、そしてストラヴィンスキーなどの音楽も、こうしたロシアの〈移動する民〉の文化とけっして無関係ではないのである。ロシア兵に護衛されたアジアの隊商が中央アジアの砂漠を歩んでいく風景を音楽によって描いたボロディンの『中央アジアの草原にて』など、まさに〈移動する民〉の音楽であり、それ自体がアジアとヨーロッパをつなぐロシアの特殊な風土を示唆するものに他ならないが、ずっと後発のストラヴィンスキーなどは、彼自身がロシアから移動していく過程で、ロシアの伝統との距離を見つめ直すことを通して、自らの音楽を作り替えていった作曲家であろう。このような視点からこれらロシア音楽を代表する作曲家について考えてみることには少なからぬ意味があるだろう。




作曲者の高弟で指揮者のロバート・クラフトを聞き手としてストラヴィンスキーが自身の人生と作品を存分に語ったMemories and Commentaries (Faber and Faber, 2002)という本がある。これはストラビンスキーの音楽を愛する者には必備、巻末の便利なインデックスを頼りに好きなところを拾い読みしているだけでも楽しい一冊だ。クラフトという最高の対話者(そして最高の解釈者の一人でもある。最近、Naxosレーベルから廉価でその演奏の復刻が揃い始めている)を得て、痒いところまで手が届くように、この類い稀なる音楽家の複雑で多様なコンテクストをあざやかに開示してくれている。
幼い時代にストラヴィンスキーがマリンスキー劇場(彼の父はこの劇場の座付きのバス歌手だった)で体験したグリンカほかのロシア音楽、それに劇場で見たチャイコフスキーその人の姿など、彼がいかに多くのものを自分が生まれ育ったロシア音楽の伝統から受け取っていたかが物語られている。1893年、父も歌ったマリンスキーでの『ルスランとリュドミラ』の幕間のこと、11歳のストラビンスキーはチャイコフスキーの姿を見ている。

最初の幕間で私たちはロジェから裏手の小さなホワイエに出ていった。すでにそこには数人の人がそぞろ歩いていたのだが、突然母が私に言ったのだ。「イーゴリ、見て、あそこにチャイコフスキーがいるよ」 私は白髪の、肩の広い、肥った背中の一人の男を見た。この影像は生涯を通して私の記憶の網膜の中に焼きつけられることになった。

チャイコフスキーはこのわずか一ヶ月後に命を落とすことになるので、イーゴリ少年はぎりぎりでその実像を目にするのに間に合ったわけだ。そして《生涯を通して私の記憶の網膜の中に焼きつけられた》というのは、実際その通りだったのだろう。ストラヴィンスキーはチャイコフスキーの死を知らされてひどい衝撃を受けたと言っているし、没後に開かれた2回の追悼演奏会(悲愴交響曲や第4交響曲他が演奏された)のことを正確に記憶していて、そのうち一つの演奏会のチケットはまだ手元に持っているんだとクラフトに語っているほどである。
しかしながら、ストラヴィンスキーは一般にはロシア音楽の範疇ではあまり捉えられていないかもしれない。チャイコフスキーやロシア五人組からグラズノフやショスターコヴィチへと繋がるロシア音楽の系譜の中に入るよりも、ドビュッシーやラヴェルなどの近代フランス音楽の枠の中で捉えられることが多いだろう。それは後述するように早くからロシア国外に出て、以降故国に戻ることはなかったこと、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)との仕事を含めてフランスや、後には移住したアメリカの文化環境との関わりが深かったことがなんと言っても大きい。このことの意味をあらためて再確認した上で、その上でなお〈移動する民〉の音楽家としてロシア音楽を体現する存在であったと考えてみたいのである。


恐らく多くの人がそうであるように、僕にとってもストラヴィンスキーの音楽に触れたのは3大バレエが最初だった。1970年代にニューヨーク・フィルをピエール・ブーレーズが指揮した録音が出て、特に『春の祭典』は録音技術とアメリカを中心とするオーケストラの演奏技術が飛躍的に向上した時期と重なったこともあって、もっぱら難曲を制覇するオケや指揮者の技術やオーディオ的な面からもてはやされていたかと思う。
とはいえ、ブーレーズ/ニューヨーク・フィルあるいは小澤/パリ管弦楽団の『火の鳥』全曲版などは夢中になって聴き、そのファンタジーにすっかり魅了されたものだ。鍵谷幸信さんという英文学者で、この方は西脇順三郎に師事して西脇の全集編纂や研究にも関わった人だが、ユニークな音楽批評も展開していて、ブーレーズや小澤の『火の鳥』の演奏を高く評価していたことも覚えている。とくにパリ管の演奏は、みずみずしい木管の音色といい、弦楽セクションが序曲でフラジオレットによるグリッサンドを奏するところといい、火の鳥の翼の、それこそ羽毛の感触までが感じられるようで、今でも時々聴き惚れる(この頃の小澤さんはまだ…良かったなあ)。因みに言えば僕が『ペトルーシュカ』を最初に聴いたのは、FM東京だったかのラジオ・プログラムの中での朝比奈隆と大阪フィルの演奏。朝比奈さんとストラヴィンスキーというのは今ではなかなか想像がつかない組み合わせだが、重厚さがかえってモダンな響きを醸し出していて、僕の場合これでストラヴィンスキーの魅力に開眼させられたと言ってもよいものだった。
ともあれ、かくなるごとく、ストラヴィンスキーというとフランスやアメリカのオケが得意とする20世紀モダニズムの作曲家であり、特に1970年代以降に世界のオケの演奏技術の精度が高まってからというもの、3大バレエなども原始主義の音楽と呼ばれることは少なくなり、洗練された管弦楽法や新鮮な響きに焦点が合わさるのとは裏腹に、尖鋭なリズムに代表されるプリミティヴな力動性に目が向けられることは少なくなったように感じられる。そうした受容はロシアの風土性との絆を忘却させるのにも充分だったはずだ。そもそも師であったリムスキー=コルサコフとストラヴィンスキーについては管弦楽法の洗練ということもあってか共通点も少なくなく、ともにフランスの作曲家に好意的に迎えられたということもあり、ドイツよりもフランスで多く演奏されてきたという印象がある。そうした点は彼らの音楽のその後の受容がチャイコフスキーなど他のロシア音楽とは少しく異なる点であろう。本国のロシア(ソ連)でも革命樹立以後はストラヴィンスキーの作品は演奏機会に恵まれたとは言えまい。かのムラヴィンスキー/レニングラード・フィルも公式の録音で残したのは『アポロ』と晩年のユニークな傑作『アゴン』ぐらいではなかったろうか。チャイコフスキーは彼らによって何度も何度も演奏されてきたというのに。
個人的な趣味を言えば、チャイコフスキーの交響曲の演奏を聴くとしても、カラヤン/ベルリン・フィルに代表されるような分厚い響きの演奏や、金管と弦楽器のエッジが立ちすぎたシカゴ響、あるいは〈本場〉ロシアのオケの演奏などは立派だと思うものの、できれば敬遠したいところがある。ここでもまたマルケヴィッチやシルヴェストリなどが指揮する往年のフランスのオケのホルンやバソンの音色による可憐な歌が恋しくなってしまうのだ。そうしたいくぶん偏った趣味からは、ストラヴィンスキーに対してもますますその〈原始主義〉的な性格は視界に入らなくなってしまうかもしれない。だが、11歳の時の眼に焼きつけられたマリンスキー劇場でのチャイコフスキーの像がどのようにストラヴィンスキーの音楽の中で育まれていったかを振り返るなら、あながちこのような両者の繋げ方も筋違いではなかろうと思われるのである。


ストラヴィンスキーは前掲書(Memories and Commentaries)の中で、『火の鳥』という作品にはリムスキー=コルサコフの系統の音楽的要素とチャイコフスキーの系統とがほぼ同じ分量で見出せると自己分析している。そしてチャイコフスキー型の要素がよりオペラティックで声楽的(vocal)であるのに対して、リムスキー型の系統は和声と管弦楽の色彩において際だつものであると述べている。ちょうどこの二つは音楽の横の線(旋律とリズム)と縦の線(和声・音色)に対応していると見ていいだろう。そしてストラヴィンスキーがチャイコフスキーから何を受け取っていたか、あるいは受け継ごうとしたかを、この分析ほど明瞭に物語るものはないだろう。
3大バレエ以後の数多くの傑作の中ではあまり目立たないが、『妖精の口づけ』Le Baiser de la Féeというバレエ作品(初演は1928年、パリ・オペラ座)がある。実はこれはチャイコフスキーに対するオマージュと言われる作品で、幾つかのピアノ小品や歌曲、それに交響曲や『スペードの女王』のようなオペラからの引用が指摘されている。『火の鳥』がロシアの民話をもとにしていたのに対し、『妖精の口づけ』は3大バレエのすぐ後に書かれた歌劇『ナイチンゲール』と同様、アンデルセンの童話にもとづいているが、いかにもメルヘン的な、どこか懐かしい旋律が途切れることなく続く。そこからは〈むかしむかし、吹雪の吹きすさぶ村に……〉というような語り口が聞こえてくるかのようだ。
僕はレコードの時代にこの曲をアンセルメの演奏で繰り返し繰り返し聞いていたが、どこのどこまでがチャイコフスキーの引用なのかなどはよくわからぬままに聴いていて(実は今だってよく分からないのだが……)、ストラヴィンスキーはメロディ・メーカーとしても天才だと信じていた。『プルチネルラ』を聴いてペルゴレージの原曲を意識できる聴き手もそれほど多くはないだろう。この作曲家のいい意味での〈巧緻〉さを僕などは素直に敬服してしまうのである。ここから僕たちはしかし、ストラヴィンスキーの引喩的手法の高度な技術を云々することよりも、彼がいかにチャイコフスキーが作り得たような〈歌〉に惹かれていたかを思い知るべきだろう。

それはストラヴィンスキーによるチャイコフスキーの〈歌〉の20世紀への蘇生術であったばかりではない(彼は『眠れる美女』の小管弦楽へのなかなかすてきな編曲も行っている。バッハやペルゴレージ、それからヴォルフの編曲まで手がけたストラヴィンスキーは文句なしに史上最も優れたアレンジャーであった)。彼自身が国境をこえて土地を渡り、そして時代と共に作風をかえていく、そうした時空の移動者として生きていくために〈歌〉は、とりわけ彼の故国ロシアの〈歌〉は、ストラヴィンスキーがストラヴィンスキー自身であり続けるための一筋のアイデンティティ、生きていくための糧であったろう。革命以後、フルシチョフ政権下にたった一度だけストラヴィンスキーはソビエト・ロシアを訪問している。その時のソ連の音楽界の応対や彼自身の心境がどんなものだったか、詳しいことは僕は知らないが、20世紀の芸術家たらんとした多くの人々がそうであったように、ストラヴィンスキーも国境をまたいでいくコスモポリタンの道を選んだ。コスモポリタンであろうとすることはしかし、故郷の土地を追いやられて国境をこえていく〈移動する民〉と出会いながら、多くの場合は、すれ違う。イーゴリ・ストラヴィンスキーがその交差点においてすれ違わないでいられたとしたら、彼自身も〈移動する民〉の中にいて、彼らと唱和することができたのだとしたら、それこそまさに〈歌〉に対する深い愛、これゆえにであったからではあるまいか。