見覚えのある景色。ところどころ陽を浴びた、しかし全体には翳りを帯びた青い山。黙し語らぬその山を背に湖の深い青。ジャケットの裏を見ると「TORRIDON, Wester Ross」とある。筆者は不案内だが、解説によればスコットランドの一地方の風景らしい。これはベイヌムがコンセルトへボウを指揮したブルックナー交響曲第7番のレコードのジャケット写真。10年も前になろうか、700円ほどで買った安物の英デッカ外盤である。恥ずかしながら私の手許にあるこの曲の盤はこれあるのみ。そういえば8番もクナッパーツブッシュが―枚あるきりだ。しからば私のブルックナーへの思いの気まぐれぶりも分かろうというもの。とてもまともな一文を草すべき器にはあらず。先ずはお断わりしておく。
 
坪井 秀人
 
 

ところで、このベイヌムの演奏、テンポの颯爽としたなかなかのもの。彼のスタイルなのだろう、9番の演奏も同傾向だったはず。ヨッフム等と比べればなんとも淡泊な、けれどもピュアなブルックナー。これが先のジャケット写真と不思議な調和を生み出している。ところがこの風景、まさかスコットランドのものとは思いもしなかった。オーストリアのザルツカンマーグートあたりの風景と長らく勝手に思い定めて来たからだ。かくしてブルックナー7番を聴く度ごとにザルツカンマーグートの山や湖の景色がダブってくるという次第である。

 

もとより一口にザルツカンマーグートといっても広い。私が訪ねたのも日本人観光客からは余り知られていないアッター湖だけで、それではすべては言い尽くせない。ただ、このアッター湖、19世紀末オーストリアの芸術にとっては結構因縁のあるところ。かの両グスタフ、といえば勿論画家クリムトと作曲家マーラーのことだが、この二人がしばしば足を運んだ土地なのだ。クリムトはこの湖の風景をたくさん描いたし、マーラーの方は湖畔のシュタインバッハで第2・第3の両交響曲を書いた。実際ここの湖の水はクリムトの絵にある通りで、驚くほど透明、そして深く、青い。

 

ブルックナーとこの地方との関係については寡聞にして知らない。ただ、常々「ドイツ的」という評言の付される彼の音楽言語の本質を汎ゲルマン的な枠組だけで捉えるのは必ずしも厳密ではなく、南ドイツ及びオーストリアの方言地図を重ねてみることの必要をこの写真から思い起こされたというわけだ。山のごとき峻厳さと同時に湖水のごとき細やかさを掬いあげること。厚い水層をのぞき見ることは、絶えず深淵のありかを探ろうとした世紀末ウィーンの空気と無縁のことがらではない。しかも対置された山(上昇)と湖水(下降)とは二つながらにして不可分のことがらである。


上昇と下降とが音楽において不可欠の原理であること、言をまたないが、ブルックナーの交響曲もこの単純な仕掛を極めて感動的に用いている。就中その緩徐楽章においては、まことに息の長い深々とした呼吸のリズムの波を浴びせかけてくるのだ。6番のアダージォを例にとろう。この楽章で先ず耳を惹きつけられるのは5小節めからのオーボエのソロだろう。
   
このソロは上記のように足をひきずるようなリズム・パターンで下降の音形を繰り返しているわけだが、これが先ずもってこの楽章の下降性の性格を決定する。「マタイ」の冒頭の低弦のリズムを喚起させるがごとき悲歌である。上昇しようとしながらも転げ落ちてゆく下降。そして管楽による経過部のあと、第一ヴァイオリンとチェロの官能的な応唱(レスポンソリウム)が奏でられる。

最初の音(G#)も、また音形も類似する二重奏だが、チェロの音価を第1ヴァィオリンで倍にひきのばしているところが、実に美しい。チェロのどちらかといえば、性急なむせかえるようなあこがれの上昇動機が、ヴァイオリンによってゆったりやわらげられ受けとめられる。この2つのパートによるかけあいには「トリスタンとイゾルデ」2幕の愛の二重奏にも劣らない息苦しいほどの官能が聞こえてくる。なぜかというに、これはブルックナーに限らないとは思うが、上昇しているさ中には少しの慰めもなく、抑圧され蓄積されたエネルギーが、下降においてはじめて解放され、慰安が訪れるからだ。この2パートの絡みも他の楽器を交えてクレッシェンドを重ねて上りゆき、あとはゆっくりと下降してゆく(そこでもはじめヴァイオリンがをくり返し、次に低弦がとひきのばしてうけついでいる。)そして、落ちきった深みで第1ヴァイオリンが次の葬送の音楽のような主題を奏でるのである。

   
これは7番のアダージォに先駆けるべき音楽だが、より一層内向化されたアダージォであって、甘美さにもこと欠かない。昇りつめては下り、下っては昇り……。7番がそうであるように、ブルックナーの魅力のひとつはその反復が極めて漸進的な息の長いものであるというところにあるが、6番のこの楽章ではさらに前述の音の引きのばしが、緊張を続けた筋肉が一挙に弛緩してゆくようなカタルシスを与えており、それはほとんど生理的な快感と言ってもよいほどであるのだ。
 
このような、3オクターブ下る音階だけで奥の深い感動を与える音楽を書いた作曲家は、他に何人とはいないだろう。序でに言えばこのアダージオが感動的なのは、上昇が下降(あきらめ)にいつもねじふせられながら、楽章の末尾がヴィオラによるゆっくりとした上昇(あこがれ)で閉じられていることである。

さて、7番であるが、この曲は冒頭いきなり幅の広い上昇(ホルンとチェロ)で始まる。
     
うるうるとまるで山が盛り上がって来るように、この曲は低い地層を這うがごとき6番の冒頭と比べまことに清明な開始を告げる。この交響曲で初めてブルックナーが世評を獲ち取ったのも肯けることであろう。その大衆性は随所に横溢するオーストリア的な歌謡風の旋律にもよっていよう。けれども、この作品の最大の特質はやはり極めて持続性の強い反復にあると私は思う。これは第1楽章のコーダ(Alla breve)で管楽の主旋律を支えるヴァイオリンの動機だが、これがppからfffまでゆっくりゆっくり(poco a poco)クレッシェンドしながら30小節も続けられるのである。
       
管楽セクションはトランペット、トロンボーン等が加わって華やかになってゆくが、弦楽はヴァイオリンのこの章形の反復だけで緊張を高めてゆかなければならない。まさに山が見えないうちに自然のリズムで隆起してゆくような景色を見せられるわけだ。

こういった反復の用法が最も感銘深く生かされているのは第2楽章アダージォのコーダに至る部分(ノヴァーク版のスコアで[S]から[X]にかけての28小節)であろう。上昇音形の6連符がそれこそいつ果てるともなく連綿とつづき(頭のところに「In gleicher Starke, ohne Anschwellung (同じ強さで、力を増さずに)」という注意が記されている)、(音域が)昇っては下り昇っては下りたりしながら、しだいにかたちをかえ、クライマックスを築いてゆく。終わりはやはり

という引きのばしがディミヌエンドとともに成され、最後の2小節はppのピッチカードで奏される。それが終結部のブラスによる葬送の主題へと引き継がれてゆくのである。恐らくこのような愚直なまでに誠実な音の積み上げ方が、彼の音楽を長大なものにしてしまっているのだろう、しかしその長丁場に奏者も聴衆も息を殺して身を任せた後の解放感はまた計り知れないものがあるわけである。ベルリオーズやマーラーのように不意にやって来る爆発と沈黙の交代はブルックナーにはない。緑を宿す山が恐らくそうしているような、人知を超えた奥深い呼吸。すべてが自然に、余りにも自然に始まり、終わる。

   


このフルート・ソロと第1ヴァイオリンの応唱も、6番のアダージォと同様。沈黙を互いに交わし合うところから、しずかな山と湖の景色がまた帰ってくる。
野に帰れ、アントン。野に眠れ……。
(1987年11月)