アルヴォ・ペルト(Arvo Pärt 1935-)のことから話そう。今のところ、最近CD化された『タブラ・ラサ』と、『アルボス《樹》』という2つのディスクで聴ける。どういう音楽かは聴いてもらわなければわからないが、現行の手垢にまみれた音楽を白紙還元してしまい、それらを「音楽」とカッコで括ってしまう、高橋源―郎風に言えば、「音楽(と言うよりはかって音楽であったものと言うべきなのだが)」にしてしまう、そういう音楽だ、と言っておこう。ジョスカンやモンテヴェルディの音楽が好きな人には懐かしいひびきだろう。あるいはサティ(別にジョージ・ウィンストンだって構わないが)を聴くように気楽に聴いても罰は当たらない。『タブラ・ラサ』のラィナー・ノートを書いているW・ザントナーの言を借りれば、「それは250年まえに書かれていてもおかしくはない音楽であると同時に、たったいま作曲されたともいえる音楽でもある。」
 
坪井 秀人
     
 
   

写真で見る限り修道僧のようなマスクを持ったこの作曲家の作品は「カントゥス」(ブリテンへの追悼歌。CDの演奏の他、FMでシャイー/ベルリン放送交響楽団による素晴らしいライヴが放送された)や「スターバト・マーテル」等の標題に明らかなように、宗教音楽と言っていいものが少くない。『アルボス』にヒリヤード・アンサンブルが参加しているのもうなずける。とはいえ、宗教音楽特有の典礼的な構成感や拘束性はゆるやかで、この人の曲はどこから聴いてもいいし居眠りしてもいいし何百回かけっ放しで聴いてもいい音楽だと僕は思う。

 


蓼食う虫も好きずきで、何を聴こうが演ろうが構わない。だが時代の流れは、ある。ペルトを枕に泰西古典音楽についてちょっと……。現代音楽も関係者の地道な努力が実って随分親しまれるようにはなってきた。だが、「現代音楽」の在る磁界にはなお不幸な亀裂がある。一つは、シュトックハウゼンなどますますつまらなくなってきて耳を傾ける気がしないし(現代作曲家を全否定しているわけではない)―「つまらない」と皆、言おう、「わからない」などと卑屈なことは口が裂けても言うな―、芸大の卒業生がコンクールに入選する曲の多くは音の(マスターベーションに使われた)ちり紙である場合が多い。ヴェーベルンは(そして/あるいはメシァン等も)偉大だったろう。しかし無数の「ヴェーベルン」は、要らないのだ。


もう―つ。日本のオケも欧米なみに―昔前のルーティン・プログラムから脱却して、新作や埋もれた曲の紹介に力を入れつつある。しかし、聴衆の大半が求めるものは西村朗の「ヘテロフォニー」などではなく、甘美でちょっとトラジックで、しかもそんな酪配を自虐的に吹きさましてしまうことも出来るグスタフ・マーラーの「交響曲第6番イ短調《悲劇的》」であったりする。「私の時代がやって来る」、そう、サイモン・ラトル/ベルリンフィルが完壁な演奏を聴かせる今日、やっとマーラーの<同時代>はやって来た!パンパカパーン(マラ6の動機のつもり)。

しかしそんなマーラーもいまや死に体だ。彼の童貞は奪われてしまった。現代(同時代としての)は「現代(と言うよりはかって現代であったものと言うべきなのだが)」に追いつこうと必死だ。マーラーの死骸の次に来るべきものは……。世間ではショスタコーヴィチだと言っている。これはとてもgoodな傾向だ。というのも、何も彼が各15の交響曲やクワルテット等多作であったからでなく、死後まだ10年ちょっとしか経っていないこの作曲家の音楽は、なお生臭さを保っているからであり(「現代」と「同時代」との距離が近い)、これは今までの泰西古典音楽受容の流れの中で少し違った傾向だからだ。もとより、それはショスタコーヴィチの保守的な作風に負うところがあるとはいえ、彼の晩年の逸品クワルテットの15番やヴィオラ・ソナタなどの何とも生臭い作品が本当にブームを呼ぶのか興味深いところだ。しかし、それにしてもまだショスタコーヴィチなのだ。気が付いたら21世紀になっているだろう。

アマチュア・オケのレパートリーは相変らずマンネリである。ベートーヴェンは幾分忘れかけられ、ブラームスとチャイコフスキーの交響曲と「幻想」「新世界」などをぐるぐる廻しているばかりで、せいぜいマーラーが精―杯。単に技術だけの問題ではない。アマチュアだからこそ聴く側のことを考えるべきだろう。もはや(アマチュアの)黎明ではない。

送り手や受け手の意識がどんどん新しいものを追うにしたがって(追わねばならない!)、ブラームスのような音楽はどう位置づけられてゆくのだろう。真にブラームスを愛する者は不安になるはずである。ヴァリエーションが大好きなこの人の擬古典的な音楽には(少々こじつけっぽいが)冒頭に紹介したペルトのことを考えさせるものがあるかもしれない。

僕たちにとって「新しさ」とは何だろうか。過去を否定し、昨日よりは今日と、ひたすら線的な前進を信じてきた時代はもう去ったとは言えないだろうか。ペルトの限りなく沈黙に近づいてゆくシンプルな音の世界は、節約のこの時代に応えうる―つの在り方だ。ロマン主義が崩壊してゆく時代に、パッサカリアで最後の交響曲を締めくくったブラームスも、あるいはそんな危機感を知っていた一人だったかもしれない。
あとは料理の仕方次第であろう。
(1988年10月 )