昨年の11月末、オープンして間もない池袋の東京芸術劇場でシノーポリとフィルハーモニア管弦楽団によるマーラー・チクルスの最終日のコンサートを聴くことが出来た。演目は9番の交響曲。シノーポリがまだ録音していないナンバーでもあり、8番の実況が放送されていてそれが素晴らしい演奏だったので(ストゥーダーのソプラノがなんと美しかったことか)期待しないわけにはいかなかった。

 
坪井 秀人
 

東京芸術劇場は東京で幾つめのコンサートホールなのだろう。新宿の新都庁といい、東京というメガロポリス、いやジャパンの金余りを反映したものなのだろうか、ともあれ長い長いエスカレーターで登らされる巨大なホールで(とんでもないものまで見えてしまう会場からの眺望が問題になっているらしい)、最上階の3階でも天井がないので音の抜けが驚くほど良い。オケは連日の巨大な交響曲の洪水にも流されず立派な出来ばえ。金管のちょっとしたミスも許せる。しかしそれ以上に感銘をうけたのはシノーポリの集中力で、ほとんど私の眼は指揮台に釘づけにされていた。


冒頭のシンコペーションのリズムの後に弦の主題が奏でられると私はすでに瞼が熱くなってしまった。しかしそれも一瞬。演奏の尋常ならざる分裂的な多方向性が瞼を冷まし(覚まし)、マーラーの生と死の境界領域の世界にぐいぐいと引きずり込んでいく。そんなシノーポリの力量が最も十全に発揮されたのは中間の2、3楽章であったと思う。2楽章のレントラーの冒頭の出だしも、ワルターやバーンスタインなら足踏みしたり踊ってしまったりするような無垢なものへの回帰を歌うところなのだが、シノポリーはきわめて冷淡なイン・テンポで正確な三角形を振り続ける。彼の関心はワルターたちのように民謡風の旋律線の運びや踊りのリズムにあるのではなく、むしろ木管を中心に散りばめられる装飾句の異化作用にあったようだ。無垢なもの、自然の律動への憧憬や親しさではなく、それらがイロニッシュな自意識によってますます遠ざけられ冷却されてしまうのだ。中間部の性急なレントラーでは一つ振りで突き刺すように鋭角的なフィギュールがくっきりと描かれ、互いが互いを異化する不協和音の群れが聞き手に挑みかかってくる。

ひとつの旋律線が中心となりそこに副旋律や和声が寄り添うようにして出来上がった従来の音楽の概念をもはや踏襲することが出来ない孤独な己れへのこだわり。その拘束が始めて自己閉塞から自らを解放するというイロニー。装飾が、つまりはメタ的な精神が実体に伍する主張を持ち始める。それはバロック的な精神とは根底的に違う<近代>の装飾過剰(自意識過剰)の精神のあらわれだ。そこでは実体はどこに息をついているのかがまるで分からない。痩せ細ってしまった裸身のありかを知らない<近代>の彼方。その彼方にあるのは生と死のふたつの領域を区切るボーダーがうすっペらな皮膜のように頼り無げになっている漂白のうすじろい世界だ。衣装が裸身を外部から保護したとき人はその<衣装>として生き始めた、つまり内部と外部との、生と死とのあわいの皮膜として生き始めていた。マーラーのスケルツォ楽章のパロディー性はそういう<近代>の人間学であることをシノーポリは如実に悟らせる。聞き手はだから音楽に慰謝を見出すのではなく苦痛をこそ享楽するマゾヒストとならざるを得ないのである。


第3楽章ロンド・ブルレスケはマーラーの書いたひとつの煉獄篇である。ミニマルな音型を執拗に執拗に重ね合わせ繰り返していくこのロンド楽章では、連続し安定した音場の平衡を忌み嫌うかのように、ばらばらに解体された単位の断片が衝突し合い傷つけ合う。アクロバット的と言ってもいいここでの対位法は有機的な統―体を形成するのではなく、文字通り対位(対立)しあう分裂的な機能の様相を呈する。ただカタストローフに向けてひたすら駆り立てられる前進的な速度感だけが統一体を作っているに過ぎない。舞踏病にかかった身体を思わせるこの輪舞(ロンド)は踊る身体の悦楽とはほど遠い。かといってまたラヴェルの『ラ・ヴァルス』のような時代的な寓輸の持つ力強さとも違う。パロディーは自己そのものにこそ向けられているからである。格闘する自己批評。自己破壊のエネルギー。もはや音楽の慰めなどどこにもない。

ただ、中間部のトランペットが次のような主題を奏するあたりは多くの指揮者の解釈が人間的な息吹を与える場面だ。
トランペット・ソロが割って入ってくるこのような書法は、第3交響曲の舞台裏から聞こえてくるポストホルンのソロと同じように一般にはマーラー特有のコラージュによる唐突なデ・ジャヴュの出現、幼年期への退行、回想、ノスタルジーとして扱われ聞き取られることが多い。けれどもこの主題は続く第4楽章アダージョの主題を先取りするものである。このことに意識的なシノーポリは決してノスタルジックな哀しみを託してトランペットに朗々と吹かせることはしない。第10番のプルガトリオのような煉獄(インフェルノ)の舞踏を踊るのに似て、この楽章が生と死の境界の皮膜に旋回する世界に位置しているとすれば、ここにうたわれるのは生への後ろ向きな回想ではなく ersterbend (死に絶えて)と末尾に記されたアダージョの薄明を予知し、死の領域から空気から吹き込んでくるそんな世界の姿なのではないか。トランペットは息も絶えだえな弱音でこと切れるようにはかなく聞こえてくるべきなのだ。

シノーポリという解釈者はスコアに織り込まれた夥しいメッセージを分析解読し、音の群れの底に潜在する尖筆を情け容赦無く掘り出し、聞き手にその切っ先を突きつけてくる。私は初めてこの9番の解釈の極限に出会ったと告白したい欲望にかられる。4つの楽章を通してホールに提示されたマーラーの音楽の生体ではない。紛れもなくその死体なのだ。突き詰められた解釈が作品の解釈の豊富な多義性の泉を汲み尽くし、その作品の死体を冷酷に見送るという現場に立ち会ったと言い換えてもいい。ネクロフィリアスに死体に淫するのとも違う。生者にとって実体的には経験不可能な死の領域がわれわれ<近代>に余りに近しく内在していることを味わうのである。涙は多分、ヴィオラの4つの音の連なりの後、全ての音が消え去ったあとに初めてやって来る。長い長い沈黙のみが生の音楽を奏でるからだ。

中間に舞曲やスケルツォ楽章を挟んで緩徐楽章が首尾に置かれる特異なこの交響曲の構成がチャイコフスキーの『悲愴』を踏まえていることはきわめて見やすいことだ。最近の研究では最後の楽章が当初の構想ではアダージョではなくもっと早いテンポの楽章(モデラートだったかアンダンテだったか……)となっていたことが明らかにされているようだが、悲愴交響曲の魅力が一にかかってこの構成の独創性にあることは何ら変更を要するものではない(シノーポリ/フィルハーモニアによるドイチェグラモフォン盤が新しく出ているようだがこれもアダージョで演奏しているはず)。

この余りにも有名な交響曲を知らない好楽家などどこにもいない。『運命』『田園』『新世界』と並んで一度は耳をくぐり抜けるスタンダード・ナンバーだ。私もバーンスタインの古い録音に始まって新旧のムラヴィンスキーや2種のフルトヴェングラー、各種のカラヤン、マゼール、小沢、アッバード等々の夥しい録音に親しんだし、数多くの有名無名のオーケストラの実演も嫌になるくらい聞いてきた。一体どれだけ聞いたのか忘れてしまったほどだ(その中で鮮明に覚えているのはショルティ/シカゴによるショスタコーヴィチの9番と組み合わせた初来日のときの演奏が唯一である)。私にとっては大学オケで一度演奏した思い出の曲でもある。

つい食傷気味な気持ちになってしまうこの曲を鮮度を示して演奏するのは最早容易な技ではない。フルトヴェングラーのカイロでの実況が掘り下げたような奥深い深淵とクーべリック/シカゴのマーキュリー録音の新古典的なスタイルの両極を大量再生産するのがオチである。しかし、チャイコフスキーが前作の5番まで、あるいは多くのバレエや協奏曲とは全く異なった特異な世界の中に身を預け出したことをこの『悲愴』にあらためて確認するとき、自ずと解釈のいたらなさを見出さざるを得ない。そしてそのことは何と幸福なことであろう。沢山の楽器の音をトゥッティで爆発させたり、ヴィルティオーゾ風に上昇させたり下降させたりするあの押しつけがましい仰々しさ、いやらしさを5番までのオナニスティックな浪漫主義と同じ地平に眺めるべきではない。ケン・ラッセルの映像がマーラーやそしてチャイコフスキーの音楽に捉えた滑稽なほどの自己言及性の悲喜劇を知っている私たちは、最早『悲愴』の<悲愴>な神話に溺れたり酔うことは到底出来るわけがないからである。

マーラーの9番が示した無限の自己言及が生と死との境界領域の中に宿命づけられたように『悲愴』もまた煉獄的な低音に静かに始まり静かに終わる。そしてその間にあるのは5拍子による特異な舞曲と最早デスパレートなパロディとしか言い表せぬ狂騒的なマーチ(ラヴェルのト長調のピアノ協奏曲の1楽章の結末とこれの結末とを聞き合わせてみよう)。これもまたインポテンツ・ホモセクシュアル・伝染病・自殺・処刑といった<文学的>な神話と見様によっては見ることも出来なくはない。しかし『悲愴』をこの神話の中に封じ込めて楽々としているとき、その人は自身が偽りの生体に淫する正銘のネクロフィリー(死体愛好癖)になっていることに気付いていない。あのいやらしい音の群れにまみれて自らもいやらしくなりはてていることに……。いやらしさを「いやらしい」と見る(聞く)べきなのだ。そこではじめて私たちは来たるべき『悲愴』の生き生きとした<死体>を待ち受けることが出来る。『悲愴』よ、烈しく美しく死に絶えよ!
(1991年2月)