私がこのところ聴き惚れているのはラヴェルの歌曲集『シェエラザード』。器楽伴奏の歌曲は『ステファヌ・マラルメの3つの詩』や更に後期の『マダガスカル島の3つの歌』など他にも美しい曲がラヴェルにはある。『シェエラザード』は彼がまだ28歳、ローマ大賞に落選を繰り返していた頃の作品(あのコルトーが指揮して初演)だが、テクストに密着した声の扱いといい、オーケストラに与えられた音色のパレットのゆたかさといい、ラヴェルは天性に何という見事な音を持っていたのだろうと感嘆させられてしまう。

 
坪井 秀人
 
録音はプライス(アバド指揮)、ヘンドリックス(ガ−ディナー)等いくつか出ているが、歌そのものの素晴らしさで魅惑するレジーヌ・クレスパン(アンセルメ)を別とすれば、マリア・ユーイングの物憂い官能的な歌声をラトルとバーミンガム市響が繊細に包み込んだ演奏が今のところ最も気に入っている。トリスタン・クリングゾールによるテクストはオリエンタリスムを濃厚に反映した恋歌で、1曲目「アジア」の冒頭の「アジ…アジ…」という声の響きから聞き手は一挙に東方の(恐らく我々日本人にとってはむしろ南方の)エキゾチックな空気の中に吸い寄せられてしまう。だが例えば、就中
 
 

Je voudrais voir des yeux sombres d'amour
Et les prounelles brillantes de joie
En des peaux jaunes comme des oranges

等という部分が「私は見たい、愛を含んだ黒い眼を、そしてオレンジのような黄色い皮膚で喜びにきらめく人々を」といったような意味であることに気づくと、我々黄色い皮膚を持った日本人はさり気なくは聞き流せないはずではないだろうか。


西欧音楽は伝統的に異邦ヘの憧憬や好奇に満ちたまなざしを備えてきた。ラモーの『優雅なインドの国々』等が思い浮かぶし、モーツァルトの『魔笛』で邪悪な欲望を体現するモノスタトスは黒人であり、彼は自分の肌が黒いことに負い目を負わされている。同じモーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』でもフェランドとグリエルモはそれぞれ中近東の人種に変装して双方の許嫁を誘惑する(フィオルディリージとドラベラらが誘惑の罠に嵌ったのには彼女らの見知らぬ異邦の姿が一役買っていたはずである)。もっともこれらの古典期の東方憧憬(=蔑視)と20世紀のラヴェルらのオリエンタリスムとを同列に置くことは間違っているかもしれない。前者にあってはアジアも黒い肌も単に<見知らぬ土地>あるいは<どこでもない場所>といった無国籍的な世界の比喩として解しておくのが筋だからだ。であればなおさら植民地政策の影を落としたラヴェルの時代のオリエンタリスムの意義は深いと見ねばならない。

ドビュッシーやゴーギャンなど印象主義・象徴主義の芸術にオリエント、オセアニアの文化が刺激を与えていることはよく知られている。我々日本人もしかし、西欧世紀末に対するジャポニスムの投影に得意気になっているだけではすまされまい。注意したいことは日本人もいつの間にか西欧人のラヴェルやドビュッシーと同じ視角でオリエントを差異化してしまっているという点だ。我々もまた「オレンジのように」ではないかもしれないが、黄色い皮膚を持った人種なのだ。文学が強力な文化の制度として機能してきたのと同様に、テクストを伴った音楽の歌もまた、<歌う者>と<歌われる者>との間に大きな壁を生み出してきた。極東の島国の住民が、じつは自身が<歌われる者>であることに気づかずに、<歌う者>に自らを仮託して南方の暑熱に甘美なエキゾティシスムを見出して酔い痴れることは、例えばあの大東亜共栄圏の不幸と裏表の関係になっている。かつてのわが国の共栄圏の南方政策には植民地の民族の言語や文化の研究も付随してはいたが、それは米英からの救済者という過剰な意識のもとに日本語や日本の文化習俗を押しつけるやり方で、つまり強引な差異の除去による同体化ですすめられた。<共栄>の概念が伴うべき<他者>の意識は漂白され、差異の除去の見掛けは徹底した差異の生産を本質としていたのである。振り返ってみれば日本人はアジアに対して、『シェエラザード』の3曲目の表題ではないが「つれない人」であった。黄色い日本人の黄色人種に対するインディファレントなこの姿勢は戦後の今日まで通有している。

クリングゾールの詩に音の響きを肉付けしたラヴェルには良くも悪くも強烈な<他者>の意識化が図られていた。それは『マダガスカル島の歌』(『……島の土人の歌』と訳されることもある)の2曲目「アウア!」で白人に対する原住民の抗議をフォルティッシモで叫ばせている点にも明らかだ。初演の折アンコールを求められたとき、「聴衆のレオン・モローは、「わが国がモロッコで戦っている時、こんな言葉は聞きたくない」と言って席を立って行った。」(ロジャー・ニコルス『ラヴェル』)。ヨーロッパが植民地主義によって自身をアイデンティファイすべき<他者>を発見していった中で、恐らくラヴェルの国フランスは最も他民族に対する意識化を蓄積していった国であろう。

その点隣国のドイツやオーストリア・ハンガリー帝国は少し事情が異なっている。『大地の歌』や『抒情交響曲』が中国やインドのテクストに異邦の音階を交えて作曲しても、それらの国は彼らにとってラモーのインドに近しく、物理的にも精神的にも余りに遠かったのだ。これはフランスでも同じだが、ドイツやオーストリアに東欧の労働者が流入し、社会問題化しているのは極東の我々にも周知のことだろう。昔からウィーンの文化はハンガリーやチェコの文化との接触を抜きには考えられない。しかし彼らは<他者>を包容するが、巧みに自文化に取り込む術を心得ていた(ウィーンはヤナーチェクを得意としている)。シュターツオーパーの合唱団に東欧系の人々が混じっていても、それはウィーン風の中に変色している。オペラ公演の外では東欧からの季節労働者が安いペイで(ウィーン子の誰もやりたがらぬ)雪掻きをしていたりするのだ。ウィーンの人々の東洋や日本(とりわけ日本人)に対する冷たい視線については中島義道『ウイーン愛憎』(中公新書)が詳しい。ゲルマンの文化は構築された自文化を―つの大きなミクロコスモスのようにして、驚くほど外部からの投影を抑制したところに花を咲かせた。音楽はその最も典型的な領域である。


あまたの異なる<他者>と触れあいながらも、自らの出自を破り捨てえなかったこのような20世紀ドイツ(語圏)の芸術家を私たちは例えば二人挙げて彼らを比べ見ることが出来る。パウル・クレーとパウル・ヒンデミット。この二人のパウルはともにヴァイオリンとヴィオラという弦楽器を弾いたことで共通している。画架(キャンバス)を譜面台がわりに使ってヴァイオリンを手にアンサンブルを楽しんでいるクレーの写真が残されている。
1900年の写真で、曲はシューベルトの弦楽五重奏。場所はその年に入学したミュンへンのアカデミーのアトリエか何かで、メンバーも美大生の仲間たちだろう。クレーは向かって右端、第2ヴァイオリンを受け持って、足を組んでちょこんと坐っている。椅子がまた実にモダンで、こんなに‘音楽的な’演奏風景というものもそう滅多にはあるまいと思わせる。クレーはヒンデミットの音楽も好んでいた。ヒンデミットのヴィオラ演奏はゴールドべルクとの二重奏の録音が残されているように(筆者未聴)、いっぱしのものだっただろうし、彼にはヴィオラ独奏のための幾つかの作曲がある(『白鳥を焼く男』という協奏曲も不気味な表題とは裏腹にじつに美しい曲だ)。
 
 
クレーがヒンデミットを好んだのは、芸術を楽しむというアマチュア精神が失われなかった両者の芸術の共通性を裏付ける。「拍子をはずしたり、その他まともに演奏していない人があると、私はその人に、あんたは豚だ、と静かに云ってやれる。」というクレーの愉快な言葉は、アンサンブルを経験したことのある人ならではの言葉である。ヒンデミットの音楽も聴く以上に、まずアンサンブルを楽しむための音楽ではないだろうか。そういう音楽を彼はたくさん書いた。私なども学生時代、フルート・デュオのための『カノン風ソナチネ』の楽譜を持っていて仲間とやろうとしてうまくいかなかった経験がある。うまくいかなかったのは勿論、私のアンサンブルの技術が「豚」であったからだが、しかしこれなどもただ聴いただけではそんなに面白い音楽ではない。クレーの絵は見て楽しい。しかしそれは見ている人が自らも画家の楽しげな筆致を辿り直すようなところから生まれる喩悦であろう。

彼らはまた芸術を構成的・理論的に捉えようとしていた点で共通する。クレーがバウハウスの教育者だったことは周知の通りだし、彼の理論体系は本で読むことが出来る。ヒンデミットもまた旋律線によって音楽の造形を歪めるような曲は書かなかった。彼の造形志向は旋律をまるで骨がぽきぽき折れるような<線>の織物のような趣に見せている。クレーの線は例えば樹木の枝葉の線一つとっても、どんなにおおらかに自由に描かれているように見えても、こうであらねばならぬという厳密な必然性に裏打ちされた線であった。この造形志向は民族性や地方主義とは無縁なコスモポリタニズムの顕れであるはずなのだが、それなのにクレーはともかく、ヒンデミットの数多くの作品はドイツ以外では余り受け入れられていない。

例えばわが日本で耳に馴染んでいる彼の曲は交響曲の『画家マチス』と『ウェーバーの主題による変容』ぐらいであろう。これはあの「あんたは豚だ」の精神にも拠るところがあろう。聴衆も「豚」以上のものが期待されるからだ。しかし仮に私たちがそこに普遍的な造形志向を識別できたとしても、なお本質的な理解を拒むような要素が彼の音楽には残る。それはヒンデミットの音楽の中に我々アジア人の理解できないドイツ文化の体臭が根強く支配しているからではないだろうか。最も身近である『画家マチス』にしてからが本来は、グリューネバルトの描くイーゼンハイムの祭壇画の中世ゲルマン的な陰影と厚みとが理解できなければ共感することの難しい世界なのではないだろうか。

ドイツも植民地を持っていた。にもかかわらずそこからはラヴェルやゴーギャンは生まれなかった。20世紀初頭のべルリンがストラヴィンスキーを受け入れたパリに匹敵する諸芸術の坩堝であったとしても、それはドイツの文化の本質から始発するものではなかったはずだ。ラヴェルのように「アジ…アジ…」という異邦の香りを一身に浴びる以前に、彼らは自らのミクロコスモスの形成に向かって求心化するのに忙しかったのである。ヒンデミットもクレーもそういうドイツの人々だった。そればかりではない。ナチス・ドイツの迫害によって共同体を追放された「ドイツ人」の軌跡を彼らは歩むことになった。


南京大虐殺や従軍慰安婦を空白化してきた私たちが、この二面性を理解しようとしないかぎり彼らの芸術を理解し楽しむことに骨が折れるのは当然の帰結である。ヒンデミットには「愛する人々へのレクイエム」という副題を持つ『前庭に最後のライラックの咲くとき』という作品があり、彼自身の指揮による録音も残されている(作曲者の死の年1963年、ルイス・パーカ−、ジョージ・ロンドン独唱とニューヨーク・フィルによる演奏 CBS)。テクストはホイットマン。原詩どおリ英語で歌われる。詩人が尊敬していたリンカーンの死を悼んで書いた(ある意味で愛国的な)テクストを、ヒンデミットは第二次世界大戦の犠牲者への鎮魂曲に活用した。

アメリカの合唱団の委嘱によるものとはいえ、彼がこのような重要な<機会音楽>を英語のテクストによって作曲したことの意義は考えてみるだけの価値がある。重苦しいドイツの冬の空のような音楽は紛れもなくヒンデミットのものだが、私などにはすっきりと聴き通すことが難しい曲だ。右の自作自演は、異国の土地で異国の言葉を使って自らの切なる叫びを音楽化することを前に苦渋を惨ませたヒンデミットの顔を思い浮かばせる。こんなヒンデミットは、つらい……。
(1992年2月)